2017年10月6日金曜日

マタイ 11章

9月の例会はいずみルーテル教会で、懐かしいシンディさんや野村先生といっしょに行いました。読んだのはマタイの11章です。分かち合いの中で不思議な体験をしました。いつもは沈黙が続くと、気まずくなって「何か言わなければ。」としゃべり出すことも多いのですが、この時は沈黙がいやでなくなり、黙っていても、深く祈っている充実感がありました。自分がしゃべり出す時は、自分の中に言葉が湧き出してくる感じがします。「主の言葉が臨み・・・」を思い出します。他の方が話す言葉を聞いていても、同じ感じがしました。その人の奥から、その人を通して、その人を超えた響きが聞こえます。響きは重なり合って、強く大きくなります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」のだと感じます。このような分かち合いに出会うと、自分の奥底から元気が湧いてきます。まさに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」の通りです。イエスと出会うことは、具体的な名前を持った人と向きあうことで起こるのだと、あらためて感じます。

2017年9月10日日曜日

テゼの祈り

8月の例会は「テゼの祈り」をしました。今回は藤田ご夫妻のハープとギターでの祈りでした。心静かに深い祈りができました。最後に歌った「神へのいけにえは砕かれたその魂、砕かれた悔いた心を主は喜ばれる。」が、何日たってもふとした時に浮かんで、つい口ずさんでいます。「砕かれた悔いた心」は、「私は土くれであり、ごみのような存在であることを素直に認め、無条件に憐れみを乞う心」の気がします。だから私のことは私でなく主が決めてくださいます。本当にそう思えた時、あれほど神さまから隠したかった自分も、両手に乗せて素直に差し出せます。怒りとうぬぼれと欲望に任せて、様々に分裂していた自分がいました。お互いにお互いの存在を理解しません。それは、状況に引きずられて生起した反応でしかないからです。「テゼの祈り」で繰り返し歌っていると、たくさんの自分が手を繋いで溶け合って一つになってくる気がします。平安を感じると同時に、自分の中で何か大きな目が開くような気がします。まばたきもせず、主を見つめます。主は見つめ返してくださいます。

2017年7月22日土曜日

マタイ福音書10章


マタイ福音書の10章です。ここでは12使徒に福音の宣べ伝え方が語られ、それゆえの迫害が予告されます。迫害を怖れず常にイエスの仲間であると言い表し、親兄弟よりもイエスを優先するよう求められます。一見過酷な要求ですが、そのためにあらゆる病気を癒やす権能を最初に授けられています。
ところで、私たちはキリスト者がいない場所でも、主を信じる者の顔をしているだろうか。信者であることが伝わると、急に黙られてしまったり親しげな様子が遠退いたりするのが怖くて、故意に伝わらないようにしていないだろうか。私はそうしてしまう時がある。でも、それをすると私の信仰は、状況によって使い分けるただの仮面の一つになる。信者であることを不自然に言いつのる必要はないけれど、必要があったり言いたくなったりした時は、迷わず口から出そうと思う。それは、小さいけれど確かに「宣べ伝える」ことの促しだから。その言葉がどうなるかは、御手の働き、案外好意的な反応が返ってくるかもしれない。
「そのときには、言うべきことは教えられる。実は話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」

2017年6月27日火曜日

マタイ福音書 9章


マタイ福音書の9章です。ここでは実に多くの癒しの奇跡が行われます。癒しの奇跡の話に接すると、「そんなばかなことが、起こるはずはない。」と思い「これは意味深い比喩なのだ。」と、無理に自分を納得させようとします。でも起こるもの、起こるはずはないもの、起こりえるもの、の基準を決めているのは、誰でしょう。それは「わたし」です。この「わたし」は、死んだ少女を眠っている、と言ったイエスをあざ笑う人々、イエスの力を悪霊の力と言うファリサイ派と同じです。信じられないものを最初から信じようとしないならば、「わたし」の信仰は、自分の生き方を整理するための方便でしかありません。それはエゴイズムです。「わたしにできると信じるのか。」というイエスの問いかけに、二人の盲人と同じように「はい、主よ。」と答える時、健康な「わたし」の目も見えるようになる気がします。イエスの力で、普通は起こりえないことが起こるのならば、実は普通に起こっていることすべてにも、イエスの力が働いているのではないでしょうか。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」

2017年6月12日月曜日

マタイ福音書 8章

マタイ福音書の8章です。ここでイエスは多くの病人を癒やします。らい病を患う人を癒やし、異邦人である百人隊長のしもべを癒やします。大勢の悪霊に取り憑かれた者から、その悪霊を追い出します。イエスは、頼ってくる者の苦しみをことごとく取り除いて進んでいきます。以前は、癒やしの奇跡物語に触れる度に、信じることができない違和感を感じていました。しかし、最近は違います。病人たちは、自分一人では背負いきれない苦しみを、イエスを信じて差し出します。それはもう、ほかにどうしょうもなく、ただただイエスを信じて、「救ってください。」と言って自分のすべてを、包み隠さずイエスの前に、投げ出しています。それは、決してよい姿ではなく、自分のいやらしさも汚さも小ささも、すべてそのまま差し出す姿です。イエスは、病人たちを癒やす時「あなたの信仰があなたを救った。」と言います。癒やされた人たちは、きっと喜びに満ちあふれ、感謝とイエスへの愛を持って、その後に従うでしょう。もしかすると救われるために「苦しみ」は必要なのかもしれません。
「あなたが信じた通りになるように。」

2017年5月7日日曜日

マタイによる福音書 7章

マタイによる福音書の7章です。有名な言葉「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。・・・まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば・・・兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」おが屑が気になる兄弟は、自分が映った鏡なのかもしれません。見ているといらいらする相手の顔は、実は自分の顔なのでしょう。でも、自分の丸太は大きくてとても無くなりそうにない、自分の罪は根深くまるで自分そのもののようだ。私には、できそうもない。でも、主の力を願えば・・・。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。」自分のために願うことは、悪いことではありません。「何でもかなえられる。」と言われると、我が儘だ、と思います。でも、苦しい時や心配な時、神さまに心からお願いしてお任せすれば、あとは安心できます。願いが叶わなくても、苦しみや心配の元を必ず取り去ってくださいます。ましてや「私が御心のままに変わりますように。」と願う時、それは、自分の深いところに神さまが刻んでくださった本来の姿が発現するよう願うこと。丸太もおが屑も、たいした事ではなくなって、脱ぎ捨てることができるでしょう。手を開いていましょう、些細なことを握りしめ、目をつぶってしまわぬように。顔を上げていましょう、やってくる大事な働きを見落とさないように。やがて来るものは、すでに与えられているものなのかもしれません。

2017年3月20日月曜日

マタイによる福音書 6章

マタイ福音書の6章です。ここでは施しをする時、祈る時、断食する時に、偽善者のように他の人に見せるためではなく密かにしなさい、と言われます。ところで、私たちが自分のよいところを見せたい一番の他人は、実は自分の中にいる気がします。「自分はよく祈っている、周りの人のために努力している、神さまのことをいつも感じている。」と思う時、それは自分の中で自分を採点している自分に見て欲しいのです。自分はよくやっている、自分は神さまに忠実だ、と思い込みたいのです。逆に、自分で採点する点数が低い人がいます。自分はダメな人間だ、生きる価値もない、とひたすら必要以上に自分を貶めます。一見逆に見えますが、自分の視野が自分でいっぱいになっていることに変わりはありません。自分など実はどうでもいいのです。どんなにしゃっちょこばっても、所詮は塵の固まりです。自分を通して顕れる神の息吹は、自分の価値とは無関係です。自分を見ている左手が、ことを行う右手を合わさった時、分裂している自分が大元で一つであり、それは神とひとつながりであると気づく時、神の国が現れるのかもしれません。「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」

2017年3月5日日曜日

マタイによる福音書 5章

マタイによる福音書5章です。ここでイエスは「わたしが来たのは律法を廃止するためではなく完成するためである。」と言います。律法とは「決まり」です。決まりは、それを守るか破るかが重要になり、またどういう状態になれば破ったことになるかという解釈が中心になります。『人を殺した者は裁きを受ける』としたら、怪我をさせた場合は?正当防衛の場合は?など様々な場合を想定し、細目を決める必要が出てきます。まさに法律論であり、それが律法学者たちの仕事でもあったのでしょう。しかし、「正しさ」の解釈の中に、神への信仰はありません。イエスは「兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、・・・まず行って兄弟と仲直りをし、それから供え物を捧げなさい。」と言い「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。」と迫ります。これは「決まり」ではなく、私たちの在り方そのものに切り込んできます。一見すると厳しい要求を突きつけられる気がします。でも私はイエスに「今変われ。私の目の前で変われ。自分を捨てろ。」と命がけで迫られている気がします。自分にできるかどうか躊躇するのではなく、ずっと正しくいられるか思い悩むのでもなく、「はい」と答えること。自分が一歩進み、見える風景が変わり、大地が動きます。「跳べ!」と迫るイエスに、私は深い愛を感じます。

2017年2月11日土曜日

マタイによる福音書 4章

マタイによる福音書の4章です。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と宣べ伝え始めたイエスは、ガリラヤ湖畔で4人の漁師を弟子にします。「わたしについてきなさい。」4人はすぐに従います。「わたしについてきなさい。」この言葉は、今もなお私にむかって呼びかけられています。それは、“自分”を捨てること。私は自分の大事なものや自分自身を捨てられるだろうか、弟子たちが網や船や父を残していったように。ある参加者の言葉「イエスは何一つあなたを壊さない。」あるシスターの言葉「捨てれば、よりたくさん与えられるのに。」“改心”は、悪い心を殺すことではなく、ただ神さまに自分を向けること、すべて包み隠さずただ差し出すこと。“回心”では、自分にあるものは、何一つ無くならない。自分の欠点もそのまま。あるものは変わらないが、その見え方がガラリと変わる。確かに同じものなのに、まったく違う風景に見える。その時、私は私自身を吟味することを止め、ただ押されて前に進んでいく。泣きながら歩いて行く感じは、もう消える。
♪「私は門の外に立ち、扉を叩いている。もし声を聞いて門を開けるなら、私は中に入り、あなたと共に住む。」

2016年12月23日金曜日

マタイによる福音書 3章

マタイによる福音書の3章です。今回印象深かったのは、洗礼を受けに来たファリサイ派などに洗礼者ヨハネが投げつけるこの言葉です。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」彼は何を怒っているのでしょうか。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と荒れ野で呼ばわる声を聞いて、ファリサイ派たちは、我らこそアブラハムを真に継ぐ者、天の国に最初に入る者という顔をしてやって来たのでしょう。その傲岸さへの怒りです。私はこのファリサイ派の心に「分裂」を見ます。神に向かっては戒律を守る自分を誇り、民に向かっては戒律の細則を決め、守れない者を罪人と断罪します。仲間同士の顔もあるでしょう。その中心にあるのは「大きな自分」です。それは字のごとく「臭く」いやらしさを感じます。しかし、誠実であっても、駄目な自分や弱い自分や千々の自分に分裂している限り、やっぱり自分は「臭い」です。自分の弱さに視界が覆われていることは、実は、うぬぼれで周りを見ようとしないこととあまり変わりません。至らない自分や瞋りにとらわれている自分を、すべて集めて光の方に差し出してみませんか。砕かれた心を隠さずそのまま差し出すと、きっとほっとできるでしょう。
「主の平和」は、悔い改めにふさわしい実であり、なによりのめぐみです。

2016年12月2日金曜日

テゼの祈り

11月は、テゼの祈りをしました。「一致」というテーマで植松さんからお話を聞き、たくさんの歌を繰り返し歌いました。少々体が弱っていたせいでしょうか。涙が出て止まりませんでした。私事になりますが、50才を越えると、若い頃はばかにしていた単純なことに喜びを感じるようになります。今日、元気で過ごせたこと、周りの人の笑顔が見られたこと、空が青かったこと、祈ることができたこと…。
私の中の様々な分裂が、溶け合って「一つ」になりますように。私を含めた憎みあい、反目しあう人々が、互いの顔を見て笑いあえるようになりますように。分裂や憎しみを越えて、その外側に目をやると、平凡ですが穏やかな風景が見えます。その時「人の思いをはるかに越える神の愛」を感じます。いただいた温かさを、単純にただ周りの人に返していけばよいのだと、ふと思います。まるで鏡のように。ちりあくたに過ぎないわたしであります。でも、時にちりあくたにすぎないわたしの手と、キリストの手が重なり合う時が確かにある。「キリストの平和が わたしたちの心の隅々にまで ゆきわたりますように。」

2016年9月19日月曜日

マタイ 1章

『マタイによる福音書』を読み始めました。1章では、イエスの系図と誕生が語られます。福音書は、イエスが旧約で約束されていた救い主であることを証しするために書かれました。「救い主はダビデの子孫から出る。」という預言に沿って系図を表し、「乙女が身籠もって男の子を産む。」という預言を聖マリアに当てはめます。
閑話休題、最近「大切」という言葉に、ふと「なぜ大事という意味に、切るという漢字が使われているのだろう。」と疑問に思い、調べてみました。「切」には「切ない」「切々と」など、切断とは別の意味があり、それは「鋭利な刃物を押し当てること」から転じて「ぴたりとくっついて動かないこと」という意味だそうです。たしかに、大切な相手には良い悪いの価値判断をする以前に、気持ちをぴたりとくっつけています。それは、少しでもずれれば、相手を切り裂いてしまう日本刀のような鋭利な刃物に似ているかもしれません。「大切にする」ことは、懐に抱き肌に付けて離さないこと。それは、実は真剣勝負なのかもしれません。「神の愛」は、最初「神のご大切」と訳されたそうです。『…その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる」という意味である。』

2016年8月30日火曜日





Sr,ラマーシュがご帰国されたので、3ヶ月ぶりに例会を開きます。皆さま、ぜひご参加ください。

6月の例会の内容は、前のはがきでお知らせしたので、今回は、恐縮ではありますが、わたしが読んだイエスについての本の感想を載せさせていただきます。

『ユダヤ人イエス』

ダヴィド・フルッサー 著 教文館

県立図書館の書棚で見つけた。「神の子」というレッテルをはがしたイエス像を知りたかった。キリスト論を離れ、生身のイエスが伝えようとしたことを知りたかった。また、それがどんな時代背景の中で言われたのかという必然性を知りたかった。あまり声高に言われないが、イエス自身はユダヤ教の枠組みの中で考え、ユダヤ人の仲間にむかって、ユダヤ教のメシアとして呼びかけ、一部のユダヤ人の反感を買い、十字架につけられた。その教えの中に、ユダヤ教を超える普遍性を持っていたが故に、キリスト教として、死後独立した宗教になっていく。その立役者は、生前のイエスに一度も会ったことのない弟子、パウロである。それはさておき、この著者は、ユダヤ教徒である。訳者あとがきを読むと、ユダヤ人にとって、イエスについて語ったり新約聖書を読んだりすることは一種のタブーらしい。民族の歴史を考えると、さもありなん、と思う。しかし、フルッサーはイエスの教えと、そのユダヤ教の中の位置づけ、ユダヤ人としての新約聖書の読み方に、正面から切り込んでいく。イエスの教えは、同時代のユダヤ教文書と新約聖書を並べて分析してみて、初めて納得がいくものが実に多い。歴史の中のイエス像が、はっきり見えた一冊であった。イエスについてのすべてを歴史と学問的分析の遡上に載せて、徹底的に相対化した上で、それでも救い主として信仰するメンタリティを持ちたいと思う。

読んでよかったか。うん、聖書の読み方が広がった。物語の仕掛けの後ろ側が見えた。それを知った上で、なお物語が語り伝えようとすることと一つになろうと思う。

2016年6月5日日曜日

ローマ人の信徒への手紙 14章から16章

ローマ人の信徒への手紙14章から最後の16章までを読みました。3章分を一気に読むと、その内容よりもあらためてパウロ自身のすごさを感じます。独特の有無を言わせない行進のようなリズムで、読むものに迫ってきます。それは、自分の考えを伝えようとする書き方ではなく、まるでパウロから溢れだした確信が私を押し流し、キリストの元に連れていこうとするようです。「私が生きるのではなく、キリストが生きる。」という喜びに満ちた確信は、私の戸惑いなど歯牙にもかけてくれません。正直「ちょっと待ってくれよ。」と思います。パウロの手紙を読む時、二千年の時を超えて、この押し寄せるエネルギーと直接対峙せざるをえなくなります。それはいつも、待ったなしです。
自分の死さえ全く怖れず、信じるものを曲げない相手は、すべてを投げ捨てて帰依するか相手を殺すかの二者択一しかない、という言葉を思い出します。事実パウロは殉教します。しかし、パウロから溢れ出たエネルギーは、パウロ個人を超えて今も溢れ続けています。心の泉から湧く命の水は、案外熱湯なのかもしれません。

2016年4月23日土曜日

ローマの信徒への手紙 12・13章

ローマの信徒への手紙の12・13章です。日本のジャズピアニストに山下洋輔という人がいます。インタビューの中で「もしセッションの相手と気が合わない時は、どうするのですか。」という問いに「セッションする時は、相手の全てを肯定します。相手のよさを最大限に引き出すためには、自分の何を出したらよいかを考えます。」と答えていました。パウロの言葉「自分の体を神に喜ばれる生けにえとして捧げなさい。」「自分を過大に評価してはなりません。」と響き合います。「自分を賢いものとうぬぼれてはなりません。」「迫害するもののために・・・祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」「どんな掟があっても『隣人を自分のように愛しなさい。』という言葉に要約されます。」(主よ、私には無理です。私はすぐに人を怨み、憎んでしまいます。死ねばよい、と思うことさえしばしばあります。いくら祈っても、一向に変わる気配もありません。)そんな時浮かぶ禅宗の言葉「所詮人間は、5尺3寸の糞袋」そう、私は神の息吹を除けば、ただの泥人形であった。泥人形が、一人前に歯がみしてもお笑いぐさです。神さまが一番喜ばれるのは私の砕かれた心、砕かれたままじっとしていよう、じっと待っていよう。こんな私にも「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につける」日は、必ず来ると信じて。