2014年5月22日木曜日
2014年5月3日土曜日
ルカ福音書18章
2014年4月14日月曜日
2014年1月13日月曜日
2月のお知らせ
2013年12月22日日曜日
2013年11月18日月曜日
2013年10月13日日曜日
ルカ 13章 11月例会のお知らせ
2013年9月23日月曜日
2013年7月26日金曜日
7月例会の話
2013年6月23日日曜日
投稿再会
2007年7月16日月曜日
(七月)
例会では、使徒言行録を読み終わりました。通読して印象に残るのはやはりパウロの宣教のエネルギーです。最初に神様から宣教の使命を受ける時「なぜパウロに…」という質問に、神は「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」と言われます。しかし、客観的には苦しみの連続である宣教旅行をパウロは喜んで行っているように見えます。ローマに連行される船が嵐にあった時でさえ「皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」と、同乗者を元気づけます。パウロにはゆるぎない確信があるのでしょう。それは、ダマスコで天の光の中で神に呼びかけられた回心の体験がいつも彼の根底にあるからだと思います。
さて、パウロほど劇的でなくても私たち一人ひとりは信仰の道を歩むよう神に呼びかけられた体験を持っているはずです。それは、人を通したみ手の働き、説明できない内心の動き、祈りの中での穏やかなうながしなどいろいろな姿だったでしょう。説明への論理的納得ではなく、不安からの逃避でもなく、湧きおこるように与えられた疑いえない真っ白な確信を忘れることなく、パウロのように光の中を歩みたいと思います。
(六月)
六月は、テゼの祈りを例会に替えました。テゼの祈りをするたびに思います。皆で声を合わせて歌っているといつしか心が静まって、自分の中の何かが見えてきます。絶えず頭の中を巡っている思いがしゃべることを止めて、その奥にある自分を動かす力を感じます。テゼの祈りの中で「いつも歌っていなさい。歌いたくないときでも歌えないときでも、絶えず歌いなさい。」という言葉がありました。
私的な思いになりますが、例会で使徒言行録を読む時、私の気持ちはパウロに満ちている神の息吹よりも、厳格さと強烈な自我の固さと他者を裁く視線で凝り固まっているパリサイ派にひきつけられました。自分自身の問題と重なっていたからです。それはまた現代のあらゆる場所にある真面目さとも重なります。ある時ふと「闇はいつもある。しかし好んで闇だけ見つめてもしょうがない。」と思いました。ポロリとかさぶたがとれました。闇は消えることなくいつもつきまとうけれど、同時に闇よりも大きな光に身をゆだねようと思います。
すべてのものは祝福されてあるという認識、その継続と展開が勝負のしどころです。
(四月)
例会では、使徒言行録の二十二・二十三章を読みました。パウロは、エルサレムで自分の回心を話し、福音を伝えようとします。しかし、人々は「こんな男は、地上から除いてしまえ。」と言い、最高法院では、パウロの言葉をめぐって激論が起こります。パウロを暗殺する誓いを立てるものさえ現れます。なぜパウロは同胞であるユダヤ人からこんなにも憎まれるのでしょうか。それは、イエスが救い主(メシア)であることを彼らが受け入れないからです。それ以上に、私にはパウロとユダヤ人では、見ているものが違うような気がします。パウロには主イエスが「勇気を出せ。」と直接語りかけます。そこには、神から息吹かれた確信と喜びがあります。一方律法を遵守するユダヤ人には人としての思い込みや頑なさを感じます。死を恐れずに福音の喜びを伝える人に対しては、これに帰依するか殺してしまうかのどちらかしかないと言います。さて、もし私が当時のエルサレムにいるとしたら、どちらの道をとるでしょうか。自分の思いや自分の正義をすべて投げ捨ててパウロが伝える福音を信じると、言い切る自信がありません。
(三月)
先月は使徒言行録の二十一章を読みました。ここでパウロは多くの信者が止めるのを振りきってエルサレムへ上ります。「…主イエスのためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」と言います。そして、エルサレムでは、神殿の境内で捕らえられリンチにあっているところをローマ人の千人隊長に逮捕されます。パウロはなぜこんなにもユダヤ人に忌み嫌われたのでしょうか。それはパウロを捕らえようとユダヤ人が叫んだ言葉「…この男は、民と律法とこの場所(神殿)を無視することを、至るところでだれにでも教えている。」から端的に分かります。また、ユダヤ人で信者になった熱心な律法の遵奉者の間でも「『子どもに割礼を施すな。慣習に従うな。』と言って、モーセから離れるように教えている」と思われています。パウロはモーセの律法を守るな、と教えたわけではなく、異教からの回心者には律法もまたそれを守る必要がないことを教えただけです。なぜなら、人は律法ではなくイエスへの信仰によってのみ義とされるからです。ここで描かれているのは実はユダヤ教とキリスト教の対立ではなく、律法(決まり)を守ることで正しい道を歩むことができるのか、それとも律法より神の愛を生きることが優先するかの対立です。この場面を読む時、ユダヤ人=悪者と思いがちですが、私の中にも実はこの律法遵守主義が隠れている気がします。それがモーセの律法でなく教会の決まりでも実は全く同じことだと感じます。義務として「正しい」とされることの影には「正しい」基準で他者を裁く視線が必ず内包されています。それは自分自身の力では払拭できない自分の闇です。闇から抜け出す方法はただ一つ。さて…。