2014年9月15日月曜日

9月の例会は、テゼの祈りに替えました。テゼの祈りをするたびに、心の捻れがもどり多少なりとも素直に神様に向き合える気がします。祈りは思弁に勝ります。今回特に心に残った歌はこの歌です。
God is forgiveness. Dare to forgive and God will be with you. God is forgiveness. Love and do not fear.
(神はゆるし。あえてゆるしなさい。神はともにおられる。神はゆるし。愛しなさい。おそれずに。)
「ゆるせない!」と思う時、心は怒りと憎しみであふれています。怒りと憎しみを握りしめていると、自分が破壊されます。ゆるせないものを「あえて」赦そうとする時、見えている景色が変わり新しい場所にいます。「赦す」は「緩む」ことです。力みを捨て、新しい場所が立ち現れる奇跡は、自分のかすかな努力に神様が手を添えて導いてくれるからだと感じます。怒りの背後には、怖れがあり、怖がる気持ちは、自分の小ささをごまかそうとします。
「イエスはわたしとともに わたしの弱さのうちに イエスはわたしとともに わたしの闇のうちに」

自分の弱さと闇の深さを認め、そこから顔を上げることからはじめてみませんか。

2014年7月26日土曜日

7月の例会は、福島いずみルーテル教会に場所を移して行い、ルカ福音書の21章を読みました。
ここでイエスは、わずかな金額でも「持っている生活費を全部」献金したやもめ(寡婦)を「だれよりもたくさん入れた。」と評します。金持ちたちは、はるかに多くの金額を献金しますが、それは余ったものであり、痛みを伴いません。自分にとって大事なもの、痛みを伴うものを捧げることは、自分自身を差し出すことに通じます。それは、言い換えれば、信仰を外側から見て解釈し理解しようとするのではなく、自分の全てを投げ入れることと同じです。片足でも、こちら側に残すと命取りになります。その後、「神殿の崩壊」「エルサレムの滅亡」という形で現体制の崩壊が予言され、恐ろしげな終末の徴のあと、イエスの再来が予言されます。それは、間近に迫った受難の予告であり、その後のユダヤ民族の苦難の預言でもあり、福音を信じるものに来る大転換の例えにも見えます。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。」「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と言われます。

2014年7月2日水曜日

ルカの20章です。前章でイエスは、熱狂をもってエルサレムに迎えられ、神殿から商人たちを追い出します。そこで教えているイエスに、祭司長や律法学者たちが次々に戦いを挑みに来ます。民衆の支持を背負うイエスと支配者である律法学者たちとの命をかけた丁々発止のやり取りです。ここでのイエスは、既成の価値観を片端からひっくり返していく戦うイエスです。有名な「皇帝への税金」も「復活についての問答」もこのギリギリの状況の中で語られています。律法学者たちの意地の悪い罠である問いかけに、自分のすべての重みをかけて全身全霊で応えていくイエス。相手を痛烈に批判しつつも決して拒否することなく、必死で向き合い自分を伝えようとしています。わたしは、そこに愛を感じます。律法学者の中には「先生、立派なお答えです。」と、言うものも出てきます。それは、戦いながらも死を覚悟しているから、できる業なのでしょう。「変えられること」にひらかれてある者はイエスに従い、拒否するものはイエスを殺そうとします。わたしは、そしてあなたは、どちらでしょう。

2014年5月22日木曜日

 ルカの19章です。ここでイエスは、やがて自分を十字架につけるエルサレムのために泣きます。この「神の訪れてくださる時をわきまえなかった」エルサレムに下る神の罰は、後代のローマ軍による実際の壊滅を下敷きに語られます。罰は、「王の位を受けるために遠い国に旅立ち、帰ってきた主人」の僕にも与えられます。厳格な主人を恐れるあまり、与えられた現金を減らさないよう布の包んでとっておいた僕です。儲けるために、無くなることを恐れず投資した僕たちは、大いに賞賛され、さらに与えられます。大事にしまっておいてはダメなのです。なにしろ「わたしが帰ってくるまで、これで商売しなさい。」と命じられているのです。減らさないよう人目にもつかないよう、後生大事に持っていては、意味がないのです。この「現金」を「恵み」と「喜び」に読み替えたらどうでしょう。自分の中で完結している恵みや喜びはやがて消え去ってしまうでしょう。溢れる喜びは、ザアカイのように、身を貫いて「財産の半分を貧しい人々に施します。…」という叫びになって表出します。与えれば与えるほど、ますます湧いて溢れます。「持っている人はさらに与えられる」のですから。

2014年5月3日土曜日

ルカ福音書18章

ルカ福音書の18章です。ここで大事なのは「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」という徴税人の言葉、「ダビデの子イエスよ。わたしを憐れんでください。」と叫び続ける盲人の言葉。「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち(を)…ほうっておかれることがあろうか。」という神様への信頼。「あなたの信仰があなたを救った。」と言われる、心の底から請い求め、願い続ける気持ち。「憐れんでください。」というのは、簡単そうで難しい。恥ずかしいところも見せたくないところも素直に認め、それを全部差し出してお願いすることだから。わたしもあなたも心のどこかにプライドがあり、ファリサイ派のように「私は、よい人間です。私はこんなに立派なことをしています。」と、かすかでも思っている。その気持ちは、「持っている物をすべて売り払い貧しい人々に分け」られない金持ちの財産と同じ。わたしの足枷、わたしを地上に繋ぎ止めるもの。捨てられないものや気持ちが邪魔をして、イエスの死と復活の言葉も理解できない。考えず戸惑わず、素直に自分を差し出すのは、乳飲み子たちのような者。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

2014年4月14日月曜日

ルカによる福音の17章です。イエスは弟子たちに赦しを説きますが、弟子たちは「わたしどもの信仰を増してください。」と言います。これは「私たちの財布をいっぱいにしてください。」と同じ響きがあります。それに対してイエスは、からし種一粒ほどの信仰もない、と嘆きます。信徒のリーダーである弟子たちでさえそうです。らい病の癒しを願った10人もイエスに感謝を伝えに戻ってきたのは異邦人のサマリア人だけでした。ユダヤ人たちは戻ってきません。「信仰薄い者たちよ。」というイエスの怒りが聞こえてきそうです。何かを欲しがったり、持てる物を増やそうとしたりする人は、たとえそれが「信仰心」という名前で呼ばれる物であっても命を失い、欲しがらず手の中のものでさえ握りしめない人は、かえって命を得るのでしょう。どんなに大きな権限が与えられていても、しもべはしもべです。主(人)ではありません。自分は「とるに足らないしもべです。しなければならないことをしただけです。」と芯から思える時、放した手に光が満ち、ゼロから無限が溢れます。それは微妙な違いですが、決定的な違いです。同じ寝室に寝ていても一つの臼を一緒にひいていても、伝えることはできません。

2014年1月13日月曜日

2月のお知らせ

ルカ福音書の16節を読みました。「不正な管理人のたとえ」は、不思議でわかりにくい話です。主人からの借財を管理人はこっそり減らしてやり、自分が失職した時に備えて恩を売ります。そのやり方を、主人は怒るのではなく褒めます。不正にまみれた富の使い方が示唆されます。金に執着せず借財は気前よく棒引きにしなさいということでしょう。「神と富とに仕えることはできない」のです。金に執着するファリサイ派が、イエスをあざ笑うと「神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」と言います。きっと当時は借財の取り立てを容赦なく行うことは正義だったのでしょう。棒引きするなど考えられなかったのだと思います。また、門前で貧しく死んだラザロに、金持ちは何一つ恵もうとしませんでした。死後、立場は逆転し、ラザロはアブラハムの宴席に招かれ、金持ちは陰府で苛まれます。お金や財産とのつきあい方は、現代でも難しく、ともすれば自分のためにお金を使うのではなく、お金に自分が振り回されている時があります。そんな時は、みごとに神様のことを忘れています。野の百合のたとえを思い出しましょう。神様は、私たちを忘れず養い、必要なものを与えてくださいます。

2013年12月22日日曜日

 ルカ福音書の15章です。ここでは「放蕩息子のたとえ」が語られます。今回新しい気づきがありました。それは、弟が父に財産の分け前を要求した時「父親は財産を二人に分けてやった。」とあり、兄の分も与えているのです。その後、弟は放蕩の限りを尽くした後我に返って「回心」をします。回心は「方向転換して立ち返る」意味です。一方まじめな兄は、父と一緒に働き続け、弟への父の歓待を見て腹を立てます。弟が戻った喜びは兄にはありません。息子の義務を果たそうと、我慢してまじめに働く兄の姿を感じます。弟の回心はわかりやすく劇的です。一方兄は、父のそばに居ながら父の顔を見ていない気がします。自分の在り方に自信があるので、親不孝な弟や親ばか丸出しの父に非難の視線を投げつけます。自分に与えられた財産には気づきません。兄に「方向転換」の恵みはあるのでしょうか。自分の正しさの根拠を自分の外に求め、それをもとに他者を裁く兄に、つい自分が重なります。兄に赦しは来るのでしょうか。あるとすればそれは、自分のまじめさを笑ってしまうことでしょう。兄の赦しは、緩むこと。握り締めた手を開くこと。緩んで開いた隙間から、笑いと光が差し込みます。それは彼方からのエネルギーに溢れています。

2013年11月18日月曜日

ルカの14章を読みました。ここでは、弟子の条件が語られます。「父、母、…自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついてくるものでなければ、…わたしの弟子ではありえない。」とイエスは宣言します。そんなことができるでしょうか。
ここでは同時に、神の招き(宴会への招待)のたとえが語られます。「畑を買ったので…」「牛を買ったので…」「妻を迎えたばかりなので…」と、人々は次々に招待を断り、自分が大事にしているものにしがみつきます。すると招待した人(神)は、貧しい人、体の不自由な人など、お返しができない人を連れてこさせます。その人たちは、持たざる人々、飢え渇いている人々です。神様の招きを敏感に感じとり、迷わず従う人々です。何かを所有していることは、幸福なのでしょうか、不幸なのでしょうか。

大事なものを手放せるかが試されている、のではありません。かすかに、でも確実に聞こえる呼びかけに、せめぎあい波立つ心の動きを超えて、ぶれずに応えられるかが、問われているのだと思います。

2013年10月13日日曜日

ルカ 13章 11月例会のお知らせ

10月の例会では、「ルカ」の13章を読みました。ここでは、回心への強い勧めが繰り返し出てきます。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」「このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから、切り倒せ。…」狭い門の例えでも、「家の主人が戸を閉めてしまってからでは…『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」となります。イエスは、こちらの戸惑いなど、少しも斟酌せず「今変われ、気づけ、回心しろ。」と迫ってきます。自分が押しつぶされるようです。「ぐずぐずせずに跳べ!」と言われている気がします。「待ってください。」は通用しません。この轟音のようないざないに「はい。信じます。」と答えるのは、とても勇気のいることです。でも、言ってしまえば、小さなとても目立たないことにも思えます。世界が突然がらりと変わるわけではありません。しかし、その一言は小さなからし種や少量のパン種にも似て、やがては全てを変えていきます。その時、初めてあの強要にも感じられた迫り方は、愛だったのだと気づきます。また、自分が答えたはずのあの「はい。」そのものも、いただいた力が私を使って、奥深いところから現したものだと気づきます。気がつけば、輝いて満ちあふれるすべてのものは、いただいたもの。私の努力で獲得したものなど、何一つありません。

2013年9月23日月曜日

9月は、東京から植松さんに来ていただいて、テゼの祈りを行いました。テゼの祈りが始まると、千々に乱れていた心が静まり、静まった心の水面から、そのそこにあるいざないを感じとることができます。集まって、歌ってくださった方々のおかげで、今回も深い静寂を味わい、共に祈ることができました。
今回は特に、混乱を極めるシリアの人々のために祈りました。祈りの中で、植松さんからラルシュ(知的ハンディを持つ仲間のためのコミュニテ)での話が語られました。そこでは、キリスト者であってもなくても、洗足式に招かれて、希望すれば足を洗い合うことができるそうです。多くの人が、そこで自ら他者の足を洗い、自分の足を洗ってもらいました。平和の一番の原点が、そこにあります。詩編から歌詞をとった「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」というテゼの歌を思い出します。

シリアでの平和が一日でも早く回復することを祈ります。また、自分の周りが、「私」を通って噴出する聖霊の働きによって、平和で満たされることを祈ります。

2013年7月26日金曜日

7月例会の話

ルカの12章です。「恐れるな。思い悩むな。」と言われます。食べる物や着る物が無くなったらどうしよう、病気になったらどうしよう、持っている物をどうやって守ろう、どうやって生きていこう、困った、困った。「恐れるな。思い悩むな。」神さまは自分を絶対に忘れず、養ってくださる。「ただ神の国を求めなさい。」と言われます。そんなことができるだろうか。自分のことは自分で守らないと誰も守ってくれない、と思ってしまいます。でも、今守ろうとしているものも、与えられたものではなかったか。なぜ、今ありもしない不幸の影に、おびえる自分がいるのだろう。

目をつむると、ありもしない物がたくさん見えます。それを見せるのは、分裂して闇にもぐった自分の一部です。それが「偽善」かもしれません。いつでも目を覚まして「主人が帰って来たとき、すぐに戸を開けられるように待つこと。」私はもう自分に騙されない。「言うべきことは聖霊がその時教えてくださる。」

2013年6月23日日曜日

投稿再会

久しぶりの投稿です。これから毎月アップしていく予定です。

ルカの11章です。ここでイエスは、食事前に身を清めないことを不審がるファリサイ派に対して激しい非難を浴びせます。「ファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分たちの内側は強欲と悪意に満ちている。」律法を守ることばかりにこだわり自分の内側に巣くうエゴを見ようともしないのです。それは「しるしを求めること」への非難につながります。「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。」「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」「しるし」とは、安心のための証明であり、「~である」という保証です。そこに座したまま信じるための材料です。しかし、今いる場所で保証を欲していているだけでは、信じることはできません。「求めて与えられ、探して見つかり、門をたたいて開かれる」ことをして、聖霊のはたらきと一つになること。神やイエスを自分の側に引き寄せて「~である」と思い込むのではなく、相手や状況の中に自分のすべてを投げ入れて、促しのままにのびやかに過不足なく動き、動かされること。それは、信仰が「その輝きであなたを照らすときのように、全身が輝いている」ことと同じです。

2007年7月16日月曜日

(七月)

例会では、使徒言行録を読み終わりました。通読して印象に残るのはやはりパウロの宣教のエネルギーです。最初に神様から宣教の使命を受ける時「なぜパウロに…」という質問に、神は「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」と言われます。しかし、客観的には苦しみの連続である宣教旅行をパウロは喜んで行っているように見えます。ローマに連行される船が嵐にあった時でさえ「皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」と、同乗者を元気づけます。パウロにはゆるぎない確信があるのでしょう。それは、ダマスコで天の光の中で神に呼びかけられた回心の体験がいつも彼の根底にあるからだと思います。

さて、パウロほど劇的でなくても私たち一人ひとりは信仰の道を歩むよう神に呼びかけられた体験を持っているはずです。それは、人を通したみ手の働き、説明できない内心の動き、祈りの中での穏やかなうながしなどいろいろな姿だったでしょう。説明への論理的納得ではなく、不安からの逃避でもなく、湧きおこるように与えられた疑いえない真っ白な確信を忘れることなく、パウロのように光の中を歩みたいと思います。

(六月)

六月は、テゼの祈りを例会に替えました。テゼの祈りをするたびに思います。皆で声を合わせて歌っているといつしか心が静まって、自分の中の何かが見えてきます。絶えず頭の中を巡っている思いがしゃべることを止めて、その奥にある自分を動かす力を感じます。テゼの祈りの中で「いつも歌っていなさい。歌いたくないときでも歌えないときでも、絶えず歌いなさい。」という言葉がありました。

私的な思いになりますが、例会で使徒言行録を読む時、私の気持ちはパウロに満ちている神の息吹よりも、厳格さと強烈な自我の固さと他者を裁く視線で凝り固まっているパリサイ派にひきつけられました。自分自身の問題と重なっていたからです。それはまた現代のあらゆる場所にある真面目さとも重なります。ある時ふと「闇はいつもある。しかし好んで闇だけ見つめてもしょうがない。」と思いました。ポロリとかさぶたがとれました。闇は消えることなくいつもつきまとうけれど、同時に闇よりも大きな光に身をゆだねようと思います。

すべてのものは祝福されてあるという認識、その継続と展開が勝負のしどころです。