2014年9月15日月曜日
2014年7月26日土曜日
ここでイエスは、わずかな金額でも「持っている生活費を全部」献金したやもめ(寡婦)を「だれよりもたくさん入れた。」と評します。金持ちたちは、はるかに多くの金額を献金しますが、それは余ったものであり、痛みを伴いません。自分にとって大事なもの、痛みを伴うものを捧げることは、自分自身を差し出すことに通じます。それは、言い換えれば、信仰を外側から見て解釈し理解しようとするのではなく、自分の全てを投げ入れることと同じです。片足でも、こちら側に残すと命取りになります。その後、「神殿の崩壊」「エルサレムの滅亡」という形で現体制の崩壊が予言され、恐ろしげな終末の徴のあと、イエスの再来が予言されます。それは、間近に迫った受難の予告であり、その後のユダヤ民族の苦難の預言でもあり、福音を信じるものに来る大転換の例えにも見えます。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。」「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と言われます。
2014年7月2日水曜日
2014年5月22日木曜日
2014年5月3日土曜日
ルカ福音書18章
2014年4月14日月曜日
2014年1月13日月曜日
2月のお知らせ
2013年12月22日日曜日
2013年11月18日月曜日
2013年10月13日日曜日
ルカ 13章 11月例会のお知らせ
2013年9月23日月曜日
2013年7月26日金曜日
7月例会の話
2013年6月23日日曜日
投稿再会
2007年7月16日月曜日
(七月)
例会では、使徒言行録を読み終わりました。通読して印象に残るのはやはりパウロの宣教のエネルギーです。最初に神様から宣教の使命を受ける時「なぜパウロに…」という質問に、神は「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」と言われます。しかし、客観的には苦しみの連続である宣教旅行をパウロは喜んで行っているように見えます。ローマに連行される船が嵐にあった時でさえ「皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」と、同乗者を元気づけます。パウロにはゆるぎない確信があるのでしょう。それは、ダマスコで天の光の中で神に呼びかけられた回心の体験がいつも彼の根底にあるからだと思います。
さて、パウロほど劇的でなくても私たち一人ひとりは信仰の道を歩むよう神に呼びかけられた体験を持っているはずです。それは、人を通したみ手の働き、説明できない内心の動き、祈りの中での穏やかなうながしなどいろいろな姿だったでしょう。説明への論理的納得ではなく、不安からの逃避でもなく、湧きおこるように与えられた疑いえない真っ白な確信を忘れることなく、パウロのように光の中を歩みたいと思います。
(六月)
六月は、テゼの祈りを例会に替えました。テゼの祈りをするたびに思います。皆で声を合わせて歌っているといつしか心が静まって、自分の中の何かが見えてきます。絶えず頭の中を巡っている思いがしゃべることを止めて、その奥にある自分を動かす力を感じます。テゼの祈りの中で「いつも歌っていなさい。歌いたくないときでも歌えないときでも、絶えず歌いなさい。」という言葉がありました。
私的な思いになりますが、例会で使徒言行録を読む時、私の気持ちはパウロに満ちている神の息吹よりも、厳格さと強烈な自我の固さと他者を裁く視線で凝り固まっているパリサイ派にひきつけられました。自分自身の問題と重なっていたからです。それはまた現代のあらゆる場所にある真面目さとも重なります。ある時ふと「闇はいつもある。しかし好んで闇だけ見つめてもしょうがない。」と思いました。ポロリとかさぶたがとれました。闇は消えることなくいつもつきまとうけれど、同時に闇よりも大きな光に身をゆだねようと思います。
すべてのものは祝福されてあるという認識、その継続と展開が勝負のしどころです。