2016年9月19日月曜日

マタイ 1章

『マタイによる福音書』を読み始めました。1章では、イエスの系図と誕生が語られます。福音書は、イエスが旧約で約束されていた救い主であることを証しするために書かれました。「救い主はダビデの子孫から出る。」という預言に沿って系図を表し、「乙女が身籠もって男の子を産む。」という預言を聖マリアに当てはめます。
閑話休題、最近「大切」という言葉に、ふと「なぜ大事という意味に、切るという漢字が使われているのだろう。」と疑問に思い、調べてみました。「切」には「切ない」「切々と」など、切断とは別の意味があり、それは「鋭利な刃物を押し当てること」から転じて「ぴたりとくっついて動かないこと」という意味だそうです。たしかに、大切な相手には良い悪いの価値判断をする以前に、気持ちをぴたりとくっつけています。それは、少しでもずれれば、相手を切り裂いてしまう日本刀のような鋭利な刃物に似ているかもしれません。「大切にする」ことは、懐に抱き肌に付けて離さないこと。それは、実は真剣勝負なのかもしれません。「神の愛」は、最初「神のご大切」と訳されたそうです。『…その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる」という意味である。』

2016年8月30日火曜日





Sr,ラマーシュがご帰国されたので、3ヶ月ぶりに例会を開きます。皆さま、ぜひご参加ください。

6月の例会の内容は、前のはがきでお知らせしたので、今回は、恐縮ではありますが、わたしが読んだイエスについての本の感想を載せさせていただきます。

『ユダヤ人イエス』

ダヴィド・フルッサー 著 教文館

県立図書館の書棚で見つけた。「神の子」というレッテルをはがしたイエス像を知りたかった。キリスト論を離れ、生身のイエスが伝えようとしたことを知りたかった。また、それがどんな時代背景の中で言われたのかという必然性を知りたかった。あまり声高に言われないが、イエス自身はユダヤ教の枠組みの中で考え、ユダヤ人の仲間にむかって、ユダヤ教のメシアとして呼びかけ、一部のユダヤ人の反感を買い、十字架につけられた。その教えの中に、ユダヤ教を超える普遍性を持っていたが故に、キリスト教として、死後独立した宗教になっていく。その立役者は、生前のイエスに一度も会ったことのない弟子、パウロである。それはさておき、この著者は、ユダヤ教徒である。訳者あとがきを読むと、ユダヤ人にとって、イエスについて語ったり新約聖書を読んだりすることは一種のタブーらしい。民族の歴史を考えると、さもありなん、と思う。しかし、フルッサーはイエスの教えと、そのユダヤ教の中の位置づけ、ユダヤ人としての新約聖書の読み方に、正面から切り込んでいく。イエスの教えは、同時代のユダヤ教文書と新約聖書を並べて分析してみて、初めて納得がいくものが実に多い。歴史の中のイエス像が、はっきり見えた一冊であった。イエスについてのすべてを歴史と学問的分析の遡上に載せて、徹底的に相対化した上で、それでも救い主として信仰するメンタリティを持ちたいと思う。

読んでよかったか。うん、聖書の読み方が広がった。物語の仕掛けの後ろ側が見えた。それを知った上で、なお物語が語り伝えようとすることと一つになろうと思う。

2016年6月5日日曜日

ローマ人の信徒への手紙 14章から16章

ローマ人の信徒への手紙14章から最後の16章までを読みました。3章分を一気に読むと、その内容よりもあらためてパウロ自身のすごさを感じます。独特の有無を言わせない行進のようなリズムで、読むものに迫ってきます。それは、自分の考えを伝えようとする書き方ではなく、まるでパウロから溢れだした確信が私を押し流し、キリストの元に連れていこうとするようです。「私が生きるのではなく、キリストが生きる。」という喜びに満ちた確信は、私の戸惑いなど歯牙にもかけてくれません。正直「ちょっと待ってくれよ。」と思います。パウロの手紙を読む時、二千年の時を超えて、この押し寄せるエネルギーと直接対峙せざるをえなくなります。それはいつも、待ったなしです。
自分の死さえ全く怖れず、信じるものを曲げない相手は、すべてを投げ捨てて帰依するか相手を殺すかの二者択一しかない、という言葉を思い出します。事実パウロは殉教します。しかし、パウロから溢れ出たエネルギーは、パウロ個人を超えて今も溢れ続けています。心の泉から湧く命の水は、案外熱湯なのかもしれません。

2016年4月23日土曜日

ローマの信徒への手紙 12・13章

ローマの信徒への手紙の12・13章です。日本のジャズピアニストに山下洋輔という人がいます。インタビューの中で「もしセッションの相手と気が合わない時は、どうするのですか。」という問いに「セッションする時は、相手の全てを肯定します。相手のよさを最大限に引き出すためには、自分の何を出したらよいかを考えます。」と答えていました。パウロの言葉「自分の体を神に喜ばれる生けにえとして捧げなさい。」「自分を過大に評価してはなりません。」と響き合います。「自分を賢いものとうぬぼれてはなりません。」「迫害するもののために・・・祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」「どんな掟があっても『隣人を自分のように愛しなさい。』という言葉に要約されます。」(主よ、私には無理です。私はすぐに人を怨み、憎んでしまいます。死ねばよい、と思うことさえしばしばあります。いくら祈っても、一向に変わる気配もありません。)そんな時浮かぶ禅宗の言葉「所詮人間は、5尺3寸の糞袋」そう、私は神の息吹を除けば、ただの泥人形であった。泥人形が、一人前に歯がみしてもお笑いぐさです。神さまが一番喜ばれるのは私の砕かれた心、砕かれたままじっとしていよう、じっと待っていよう。こんな私にも「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につける」日は、必ず来ると信じて。

2016年3月30日水曜日

ローマの信徒への手紙11章

ローマの信徒への手紙の11章です。ここでもパウロは、異邦人の救いとイスラエル人の関係を述べています。これを読んで、ふと30年以上前のことを思い出しました。当時、私は必要以上にとがった大学1年生で、周りの人を攻撃したり、議論をふっかけたりしてばかりいました。それを見かねたのでしょうか、4年生の女性の先輩が飲みに誘ってくれました。その席で「先輩が信じているものは何ですか。」とたずねると「周りも人も自分も変わるということを信じてる。」という答えが返ってきました。即答でした。笑顔がありました。笑顔の向こうに希望がありました。今の苦しみも喜びも、自分を含めた全てが変わっていきます。明日は今日の続きではなく、全く新しい何かが始まる時かもしれません。新しくなった自分にとって、脱ぎ捨てた過去のこだわりやうらみは意味をなさないものになります。「今」が変わると「過去」が変わります。人が新しくなる時、そこには神の息吹があります。頑張って自分を変えようとするのは、頑なな心のなせる技です。「私を変えてください。」とお祈りしましょう。「接ぎ木されたぶどうの枝」も「根から豊かな養分を受けるようになる」のですから。

2016年3月7日月曜日

ローマの信徒への手紙10

「ローマの信徒への手紙」10章です。ここでパウロは、神の救いがイスラエルにだけでなく、神を信じるすべての人に及ぶと言います。ある意味、ユダヤ教との決別の表明です。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。主の名を呼び求めるものはだれでも救われるのです。」その救いは、律法を遵守する義ではなく、信仰による義からやってきます。その信仰は、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです。」しかし、信仰は「宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。」「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」遣わされた者、それは私。信じることと宣べ伝えることは、実は同じこと。信じることのほとばしりが、周りの人を幸せにして、何か伝わっていけばよいと思います。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか。」

2016年1月19日火曜日

ローマの信徒への手紙9

 「ローマの信徒への手紙」9章です。ここでパウロは、キリストを信じないユダヤ人とキリスト信じる異邦人について話します。「・・・異邦人が・・・信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。・・・イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。」自力の行い、律法の遵守をいくら積み上げていっても、決して神の国には届きません。では、信仰とは?
ある少女のおじいさんが危篤状態で入院しています。その苦しむさまを見て、その子は枕元で「(痛みを)半分もらいたい。」と言いました。「ありがとう。」の返事がありました。ある修道者が末期ガンで死の床にありました。痛みを和らげるために「モルヒネを打ちましょうか。」と言う医師に「結構です。私が痛むとその分だれかの痛みが減るような気がします。」と言いました。
守らないで、差し出して、委ねること、そして、引き受けること。苦しい時は、ただただ理不尽に苦しい。だから、転げ回って苦しめばいい。でも、逃げないで、その場にいっぱいであり続ける。苦しみが去った後、変えられた自分がそこにある。もしかしたら、それが復活なのかもしれません。

2015年12月12日土曜日

H28 1月例会のお知らせ

12月は、平賀司教様の黙想会を例会に替えました。司教様は「神のいつくしみ」について、また「神は人間を創造した責任を感じておられます。」という教皇フランシスコの言葉について話されました。私が印象的だったのは講話の後の質問で「神さまのいつくしみは、頭では分かるのですが、なかなか腹に落ちません。どうしたら、ドスンと腹に落ちる分かり方ができるのでしょうか。」という質問に「神さま、わたしにあなたのいつくしみを腹で分からせてください、とお願いしましょう。」とお答えになったことです。この質問と全く同じ事を私も常々思っていました。どうしたら、確信に満ちた信仰が持てるのでしょうか。何を努力したらよいのでしょうか。毎日祈る時間を作る?祈り方を工夫する?回りの人にキリストを見出す?でも、それができない自分がいます。私は一番大事なことを忘れていました。わたしを変えてください、とお願いするのです。早急に何かになろうとせず、お願いしてじっと待ちましょう。信じて待つこと、希望を持って待ち続けることそのものが、実は「祈り」だと思います。自分という乗り物の一番よい席は、与えられるもの、外からやって来るもののために、空けておきましょう。そこから光が差します。

2015年11月22日日曜日

11月は、「テゼの祈り」を例会としました。指導してくださった植松さんから「弱さ」についてのお話がありました。私も最近、人の弱さについてよく考えます。「強くなりなさい。自分の弱い心に打ち克ちなさい。」と言われ続けてきた気がします。でも、本当にそれでいいのだろうか。
神が選ぶのは、強い人ではなく、本当に弱い人をその弱さゆえに選びます。強くならなくてもいいのだと思うと何だかほっとして、柔和になれる気がします。つらさや困難を受けた時、つい体を固くして、乗り越えられるよう強くなろうとするけれど、それではつらさが増すばかり。弱い自分であることをじっと見ながら、何かが向こうから示されるのを待っていると、大抵は希望が湧いてくるのを感じます。聖霊のはたらきなのかもしれません。

これはよいやり方だ、次もそうしよう、と思ったとたん、ひらいていた心が閉じて、自分を価値ある何者かだと思ってしまいます。わたしたちは、神さまからの手紙、紙とインク自身に意味はありません。左手が思ったことを右手にも知らせずに、ただ一歩前へ。

2015年10月25日日曜日

「ローマの信徒への手紙」8章

「ローマの信徒への手紙」8章です。ここでは「霊の体」について語られます。「神の霊によって、導かれる者は皆、神の子なのです。」「わたしは確信しています。死も命も天使も支配するものも現在のものも未来のものも力あるものも…私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」この圧倒的確信と信頼感は、どこから来るのでしょうか。ある年配の信者さんの言葉「イエスを信じるということは、自分の十字架を背負ってイエスの後について死ぬということ。それだけだ。」自分の苦しみを引き受け、理不尽な痛みや切なさから逃げないこと、苦しいまま向こうからやってくる出来事を待つこと。「アッバ、父よ。」の叫びには、頭を垂れる恭順とうめきがないまぜになっています。「わたしたちも、神の子とされること、つまり体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいます。」「霊自らが言葉に表せないうめきをもって取りなしてくださるからです。」うめきながらも逃げ出さない。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」圧倒的な喜びと確信が、やってくることを信じながら。それが希望です。

2015年10月12日月曜日

ローマの信徒への手紙7章

ローマの信徒への手紙7章です。ここでは律法(掟)と罪の関係が語られます。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、…命をもたらすはずの掟が、死に導くものである…」本来正しく善いものである律法(戒律)が死をもたらすのは、自分の中の罪が「自分が望むことを実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」在るべき姿になろうという思いは、そうなれない自分の弱さをかえって際立たせます。だめな自分であるという悔恨は、それでも頑張ろうとする自分とますますだめになろうとする自分という深刻な分裂を生みます。まるで、同じ強さの力を持った子鬼たちが自分の中で争っているようで、それは全部自分なのだから、いつまでたっても決着がつかず、ただ心は疲れ倦んでしまいます。なんとかしようと力むのを止めた時、自縛の綱はするりと解けるでしょう。分裂した惨めな自分をそのまま差し出した時、自分の彼方にある風景が見えます。

♪こころの嘆きを 包まず述べて、などかは下ろさぬ負える重荷を♪

2015年8月4日火曜日

「ローマの信徒への手紙」 6章

「ローマの信徒への手紙」6章です。ここではキリストの死と復活が、実は私たちの死と復活でもあることが語られます。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは…もはや罪の奴隷にならないためである。」「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」そう簡単に考えられますか?洗礼を受ける時「白い衣を受けなさい。」と言われ白い布を肩に掛けられました。あれは、これまでの罪が赦されて新しく生まれ変わった、という意味だそうです。生まれ変わった感じがしましたか?
自分の面子にこだわり、自分の欲望に引きずられ、未来や今の生活の心配ばかりして、他人が思い通りにならないことに不満ばかり述べている自分、罪深い自分はいまだにここにいます。ともすれば、心はそれでいっぱいになってしまいます。でも、わたしたちは、それがすべてではないことも知っています。自分の思いの向こう側から、それをつらぬいてやってくる光があります。回心とは、醜い自己愛ばかり間近で見つめることではなく、肩の力をぬいて、やってくる自分を超えたはたらきに満たされることだと思います。うまくいったぞと思い、自分を過信したとたんに、それは消えてしまいます。握りしめずにはなちつづけること、むずかしいですね。

2015年7月26日日曜日

お知らせのまとめ アップ

今でのはがきによるお知らせをまとめた文章を作りました。
以下にアップします。

「マルコによる福音」 ~平成16年2月

https://kie.nu/2EJr


「使徒言行録」 平成16年3月~平成18年7月

https://kie.nu/2EJs


「コリントへの手紙Ⅰ」 平成18年9月~平成20年1月

https://kie.nu/2EJt

「ヨハネによる福音」 平成20年2月~平成22年9月

https://kie.nu/2EJu

「ヘブライへの手紙」 平成22年10月~平成24年4月


https://kie.nu/2EJv

「ルカによる福音」 平成24年5月~平成26年1月

https://kie.nu/2EJx



2015年7月19日日曜日

ローマの信徒への手紙 5章



「ローマの信徒への手紙」5章です。ここでは、律法によって義とされるのではなく、信仰によって義とされることが語られます。戒律と掟を守るから、正しいのではありません。律法は、それを守れないことによってかえって罪を作り、他者への裁きを生みます。

信仰によって義(正しい)とされるとは、キリストの流した血によって、自分の中に巣くう多くの罪が、赦された喜びそのものに成ることです。それは、私たちの努力で勝ち得たものではなく、ただ与えられ、与えられ続けるものです。まさに恵みです。そこから目を逸らさなければ「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み」ます。自分の外から、思わぬところから、よいものがきっと与えられるという希望は、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから」やってくるのです。怒りであっても喜びであっても、自分の思いだけで心を満たすのではなく、聖霊によって注がれるみちびきが入る場所を、空けておきませんか。ほんのわずかな隙間でも、そこからすべてが始まり、それがすべてとなるはずです。

「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれます。…恵みも義によって支配しつつ…永遠の命に導くのです。」

2015年6月3日水曜日

ローマの信徒への手紙 4章



ローマの信徒への手紙4章です。ここでは、律法を守るから義とされるのではなく、神を信じるから義とされることが、アブラハムの模範を元に、繰り返し語られます。また、割礼に触れ、ユダヤ人でなくとも、信仰があればすべての人が義とされると言い、キリストへの信仰が全世界に広がる基礎を作ります。「アブラハムは信じ」というフレーズが繰り返され、また、「実に、律法は怒りを招くものであり、…信仰によってこそ世界を受け継ぐ者になるのです。」とあります。

確かに、律法だけでは、決まり事を守ることに終始し、規範通りにしているか、人と自分を裁く視線が自分そのものになります。そこには怒りしかありません。律法を振り回す自分が自分の主人となり、逆に律法に振り回されています。では、信仰とは何でしょうか。信じることは、行いではなく、知識ではなく、ましてや心の在りようでもありません。それは「自分は確かに赦された。」といういただいた実感であり、そこから湧き出てくる喜びであり、喜びに裏打ちされた他者への祝福であると感じます。「人の罪である死の棘」が、抜け落ちたことの悦びです。いやなことや苦しいことが無くなるわけではありませんが、中心にある「赦されている喜び」と一つになっていたいです。