2007年7月16日月曜日

(五月)

先月の例会では使徒言行録の十四章を読みました。パウロとバルナバがいろいろな地で伝道する様子が書かれています。ここで印象に残ったのは、パウロの意志の強さよりもむしろ人々の心変わりの早さです。リストラの人々は二人を最初、神だと思いこみ牛の生け贄や花輪まで捧げようとします。パウロがやっきになって「わたしたちもあなたがたと同じ人間にすぎません。」と説明します。ところがユダヤ人に扇動されると、「パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外に引きずり」出します。この心変わりの早さは何でしょう。

人間は自分の見たいものしか見ない、と言います。パウロを賛美しようと憎悪しようと自分の思いに引きずられていることは同じです。自分の思いを越えて、来るものに耳を澄ますことの難しさを感じます。

(四月)

使徒言行録の十三章を読みました。パウロの最初の伝道旅行です。アンティオキアの会堂でパウロは求めに応じてイエスが救い主であることをのべ伝えます。また、ユダヤ人に限らず「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが地の果てにまでも救いをもたらすために。」と異邦人にもイエスの救いがもたらされることを宣言します。それを聞いてユダヤ人はパウロとバルナバを迫害します。単純に考えるとパウロたちが善でユダヤ人が悪だと思いがちですが果たしてそうでしょうか。ユダヤ人は厳格に律法を守ることによって救いが得られると信じています。彼らにとってパウロは正しい教えを捻じ曲げる異端、魔術師と映ったのでしょう。それを迫害することは彼らにとっては神の教えを守る正義の行為であったはずです。自分が信じることを守るために他を迫害する行為はいつの時代もありました。真面目であればあるほどその度合いはひどくなります。かつてのパウロ自身がそうであったように。「まじめの悪徳」です。戦争も大量虐殺も真面目な人が起します。怠け者ではありません。キリスト教の歴史の中にも、そして現在の教会の中にも私たち自身の中にも「まじめの悪徳」は潜んでいます。「まじめの悪徳」に操られる時、私たちは自分のエゴを神と呼んでいるような気がします。

神さま「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。」でも私たちは本当に心の底から人を赦すことができるのでしょうか。それは人間の業ではないような気がします。

(三月)

使徒言行録の十二章を読みました。しかし、話はパウロの手紙が中心になりました。パウロは初代教会の中でもラディカルすぎて孤立していきます。十、十一章で神の恵みが異邦人にも与えられることがわかった後、パウロは伝道旅行に出かけます。そして、自分が宣教した土地に後から手紙を送り、私が伝えたものの他に福音はない、と宣言し他の福音に対して「呪われるがよい」と言います。この激しさはどこから来るのでしょうか。普通、人は年を取ったら穏やかになるといいますが、パウロは七十近くなっても同じ激しさを持っています。きっと疑いえない確信があるのでしょう。それは、自分の回心の体験であり、その時聞いた神の呼びかけだと思います。この激しさと、イエスが安息日に麦の穂を刈るのをとがめたファリサイ派の根本的ちがいはなんでしょうか。人をとがめる視線と愛を伝えようとする態度のちがいでしょう。でもこの二つは、ともすると自分の中で知らないうちに入れ替わっています。自分が人に迫るとき、神の愛の名の元に自分の基準でただとがめようとしているのか、それともたとえ態度は厳しくても、自分を通して神が愛を伝えようとしているのか、よくよく吟味しなくてはなりません。

(二月)

先月は、私が風邪でいずみとぶどうの会に出席できませんでした。一人で聖書を読んでも、いつも会で感じるようなひらめきや啓かれた感じがありません。他の人と一緒に読むことがどんなに力になっているかをあらためて感じます。人の意見や自然など外側から来るものは、自分と異質な塊として入ってきます。それに触発されて自分の中から思いもよらない思いや感想が出てくるときがあります。音の共鳴に似ているかもしれません。自分の思いをぎゅっと握っていると外からの音に自分が響かなくなります。反対に自分へのこだわりが少ないと他者からの発信に自分が心地よく響くのを感じます。その響きあいの背後にはいつも無音のここちよい響き、神の響きがあることに気づきます。ある時は小さく、ある時は轟音として鳴り響いているその響きにいつも耳をすましていたいと思います。

(平成171月)

1月の例会では、使徒言行録の9章「サウロの回心」を読みました。キリスト教から見ると主の弟子たちを殺そうとしていた回心前のサウロは極悪非道に見えますが、本人にしてみればユダヤ教の異端を排除する正義心からの行為だったと思います。そこに私は残虐さよりも、激しさと妥協を許さない真面白さを感じます。そのサウロが主の声を聞き、目からうろこのようなものが落ち回心します。その時、サウロの今までの悪事を非難するアナニアに、主は「あの者は、…わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」といいます。事実、熱烈な弟子となったサウロは妥協的なベトロを非難し、弟子たちからも孤立していく面があります。しかし、キリストへの信仰が唯一であり律法より優先すること、割礼を受けているかいないか(ユダヤ人であるかないか)は関係ないことを宣言したのもパウロ(サウロ)です。キリスト教がユダヤ教から訣別し、より普遍的な宗教として広まる基礎と神学を確立したと言えるでしょう。その際のたくさんの困難を越えてキリストの信仰を広める力があったからこそ、主はサウロを選んだのだと思います。その力の源泉は「主への畏れ(うやまい)」と「聖霊で満たされていた」ことではないでしょうか。頑なな思いからではなく、泉のように湧いてくる柔らかな活力があったからこそ成し遂げられた偉業だと感じます。

12月)

12月は「テゼの祈り」を例会に替えました。東京から植松さんが来てくださり、20人ほどの参加者で行われました。神父様の祝福もあり、祈りに満ちた会になりました。私は何回か参加しているのですが、その度に忘れていた静かな気持ちを取り戻せます。テゼの祈りを楽しみにしている方もいて必ず参加してくださいます。

今回の祈りの中で「わたしが疲れて元気がなくなり歌えなくなった時、誰かが私のために歌ってくれる」という言葉がありました。心に残りました。私たちはいつも、「困った人を助ける」「他の人のために働く」など助けたりほどこしたりする立場にいる気がします。人のお世話になると心苦しくてしかたがありません。でも、本当は人に助けられて生きる、困ったときに人の助けを感謝していただくことこそ大事なのかもしれません。人を助すけ、ほどこす時ついつい大きな偉い自分になっています。人に助けられる時、自分の小ささを実感します。助けられる時、人は他者に対して聞かれるのかもしれません。

11月)

11月の例会では、使徒言行録の8章を読みました。そこに聖霊を受ける話が出てきます。聖書の中では聖霊がよく奇跡を伴って出てきます。現代でも異言や癒しを中心とした運動があります。私は正直死人が生き返ったり中風患者が突然直ったりする話をにわかには信じられません。聖霊とは何でしょうか。奇跡を起こす力でしょうか。この8章に魔術師シモンが出てきます。彼は洗礼も受けフィリポにつき従っていたのですが、聖霊を授ける力を金で買おうとしています。いくらフィリポのそばにいても彼にとって聖霊は奇跡を起こす不思議な力でしかなかったのでしょう。それは大きな力ですが、魔術の延長でしかありません。しかし、「霊」は同時にフィリポにエチオピアの高官を追いかけさせ、彼にキリストを知らせます。奇跡の背後にあるもの、奇跡を通して語られる言葉に耳を傾けなければ聖霊の意味は分からない気がします。イエスの言葉に『見ないのに信じる人は幸いである。』というものがあります。奇跡が起こるのを見て信じるのか、証拠がないと信じないのか、もっと信用できる証拠があれば別のものを信じるのか。それではまるで物を買うのと同じです。疑りぶかい私に絶対的に正しい真実を与えてくれるのが聖霊の力なのかもしれません。

10月)

10月は、使徒言行録の67章を読みました。ステファノの殉教の場面です。ステファノは自分の正統性を主張する弁明の最後に最高法院の祭司たちを糾弾します。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたはいつも聖霊に逆らっています。…あなたがたがその方を裏切る者、殺すものとなった。」人々は「激しく怒り」「歯ぎしりし」「大声で叫び」ステファノの言葉が聞こえないよう「耳を手でふさぎ」石を投げて殺してしまいます。この祭司たちは、悪人ではありません。ただ自分たちが信じていることに堅い信念を持っていただけです。分かち合いの中で「私たちは信念を持ってがんばればがんばるほど分裂する。」という言葉を聞きました。殺し合いや戦争をする人は悪人ではなく、ただ自分の信念を信じて疑わないだけです。

聖書の原語では「霊と風と息」は、同じ言葉を使うそうです。どんな人でもその人の息はすべて神様の霊の働きです。どんな人の中にも霊が息づいています。だから自分に投げられたどんな言葉も神の霊の言葉です。自分に都合のよい「雄牛の像」に神を見ることは簡単です。でも、本当は今隣で生きている人の中に神様はいて、私たちに語りかけます。肩の力を抜いて、風の音を聞くように神様の生の言葉を聞きましょう。

(9月)

暑かった夏も過ぎ去り、そろそろ肌寒い季節になろうとしています。9月の例会は2ヶ月ぶりで、懐かしさに話に花が咲きました。Sr,ラマーシュのアフリカ旅行の話、アフリカは福島より涼しいそうです。自分の職場の話、日頃感じていることなどなど。話をしていくうちに、 自分の気持ちがほぐれていくのが分かります。

その中で特に興味深かったのは「もし今、自分で年齢を選べたら、何歳の自分になりますか。」というものです。短大の学生さんは、「小学生に戻ってやり直したい。」「65歳になってゆっくり時間を過ごしたい。」などがあったそうです。そういえば、私も20歳の頃早く年をとりたかったのを憶えています。年をとったら、今の葛藤も将来の不安もなくなって、平安な気持ちになれる気がしていました。ところが40歳を目の前にした今、葛藤は増えるばかりで不安はより現実的になっています。

進歩したことは…思いつきません。

年を重ねることで身につくことは、葛藤や不安とは別のところにあるのかもしれません。

7月)

=欠落=

6月)

6 月の例会は、聖霊が話題になりました。使徒言行録の4章には「ペトロは聖霊に満たされて言った」「祈りが終わると…みな聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」とたくさん出てきます。聖霊の働きは「信じた人々の群れは心も思いも一つにし…すべてを共有していた」ことにも現れています。

聖霊の働きは人には見えません。またいつでも感じられるものではありません。しかし、砂を噛む思いをしている時でも、聖霊はいつでも私たち一人ひとりに働いていて、後からそれが聖霊の働きだったとわかることもしばしばです。見えないもの、感じられないものを信じて待つのは難しいことですが、実はそれが信仰の本質なのかもしれません。

5月)

今月の例会は、使徒言行録の3章を読みました。神殿に出かけたぺトロとヨハネは、そこにいた足の不自由な施しを乞う男をじっとみて「わたしたちを見なさい」と言います。「『…ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして、右手を取って彼を立ち上がらせた」

「わたしたちを見なさい」を読んだとき、足の不自由な男が言われたと同時に、読んでいる自分が言われた気がしました。「…この人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が…この人を完全にいやしたのです。」

私は、私を完全にいやすほど信仰をもっているだろうか。自信がありません。

(四月)

先日の例会では、新しい参加者を迎えいろいろな話をしました。使徒言行録の2章を読みましたが、そこに「すべての人に恐れが生じた」とあります「恐れ」とはこわがることではなく「喜びと不思議さを感じる」ことだそうです。だから、「神をおそれなさい」は、「神を敬いなさい」という意味ですが、さらに「神さまを信じる喜びと不思議さを感じなさい」ということになります。今まで私は「おそれる」=「こわがる」(罰をこわがる)、というイメージが強かったので、新しい気づきをもらいました。

また、印象深い発言がありました。「十字架を背負ってイエスさまについていくということは、自分の周りの人をありのままに受け入れることです。」その通りだと思います。しかしそれが一番難しいことだと感じます。しかし、聖霊は多くの場合周りの人を通して私たちにはたらきかけてきます。時には心地よい形で、時にはいやでいやでしかたない思いを伴って。

苦しみも喜びも不思議さもすべて聖霊()のはたらきです。「いずみとぶどうの会」が長い間続いているのもそのはたらきのひとつではないかと思います。聖霊のはたらきを消さないようにいつも目を開けていたいと感じます。

(平成163月)

いずみとぶどうの会ではマルコによる福音書を読み終わり、使徒言行録を読みはじめました。使徒言行録の作者は、ルカによる福音書の作者と同一人物だと考えられているそうです。同じ人物「テオフィロ」に献呈されていることが共に巻頭に書かれています。「テオフィロ」とは「神を愛するもの」という意味だそうです。ところでイエスの受難と復活をその目で見た後でも弟子たちは「…あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を授けられるからである。」というイエスの言葉に「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」と答えます。まだ政治的な解放を期待しているのがよくわかります。愚かで従順な弟子たちはどこか自分に重なります。とにかく、イエスを殺した敵意が充満しているイスラエルの中で120人ほどの弟子たちはひとつになって祈っています。その必死さはその後の大きな変化を予感させます。

2007年1月21日日曜日

おわりに

「マルコによる福音」を通読して、わたしには熱く語り誰よりも真っ先に行動するイエズスの姿が浮かび上がってきました。時に苛烈に無理解な弟子たちを叱り飛ばし、信仰薄い人に怒りをあらわにします。その姿は時空を超えて直接わたしに迫ってきます。そのイエズスが死を覚悟すると怒ることも弟子を叱ることもなくなり、ひたすら柔和に寡黙になってゆきます。イエズスについて語るときその神性ばかりが強調されますが、わたしはここに人間として怒り悲しむイエズスの息づかいを感じます。その姿を率直に感じとれたことが「マルコによる福音」を読み通した一番の収穫だったと感じています。