2016年1月19日火曜日

ローマの信徒への手紙9

 「ローマの信徒への手紙」9章です。ここでパウロは、キリストを信じないユダヤ人とキリスト信じる異邦人について話します。「・・・異邦人が・・・信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。・・・イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。」自力の行い、律法の遵守をいくら積み上げていっても、決して神の国には届きません。では、信仰とは?
ある少女のおじいさんが危篤状態で入院しています。その苦しむさまを見て、その子は枕元で「(痛みを)半分もらいたい。」と言いました。「ありがとう。」の返事がありました。ある修道者が末期ガンで死の床にありました。痛みを和らげるために「モルヒネを打ちましょうか。」と言う医師に「結構です。私が痛むとその分だれかの痛みが減るような気がします。」と言いました。
守らないで、差し出して、委ねること、そして、引き受けること。苦しい時は、ただただ理不尽に苦しい。だから、転げ回って苦しめばいい。でも、逃げないで、その場にいっぱいであり続ける。苦しみが去った後、変えられた自分がそこにある。もしかしたら、それが復活なのかもしれません。

2015年12月12日土曜日

H28 1月例会のお知らせ

12月は、平賀司教様の黙想会を例会に替えました。司教様は「神のいつくしみ」について、また「神は人間を創造した責任を感じておられます。」という教皇フランシスコの言葉について話されました。私が印象的だったのは講話の後の質問で「神さまのいつくしみは、頭では分かるのですが、なかなか腹に落ちません。どうしたら、ドスンと腹に落ちる分かり方ができるのでしょうか。」という質問に「神さま、わたしにあなたのいつくしみを腹で分からせてください、とお願いしましょう。」とお答えになったことです。この質問と全く同じ事を私も常々思っていました。どうしたら、確信に満ちた信仰が持てるのでしょうか。何を努力したらよいのでしょうか。毎日祈る時間を作る?祈り方を工夫する?回りの人にキリストを見出す?でも、それができない自分がいます。私は一番大事なことを忘れていました。わたしを変えてください、とお願いするのです。早急に何かになろうとせず、お願いしてじっと待ちましょう。信じて待つこと、希望を持って待ち続けることそのものが、実は「祈り」だと思います。自分という乗り物の一番よい席は、与えられるもの、外からやって来るもののために、空けておきましょう。そこから光が差します。

2015年11月22日日曜日

11月は、「テゼの祈り」を例会としました。指導してくださった植松さんから「弱さ」についてのお話がありました。私も最近、人の弱さについてよく考えます。「強くなりなさい。自分の弱い心に打ち克ちなさい。」と言われ続けてきた気がします。でも、本当にそれでいいのだろうか。
神が選ぶのは、強い人ではなく、本当に弱い人をその弱さゆえに選びます。強くならなくてもいいのだと思うと何だかほっとして、柔和になれる気がします。つらさや困難を受けた時、つい体を固くして、乗り越えられるよう強くなろうとするけれど、それではつらさが増すばかり。弱い自分であることをじっと見ながら、何かが向こうから示されるのを待っていると、大抵は希望が湧いてくるのを感じます。聖霊のはたらきなのかもしれません。

これはよいやり方だ、次もそうしよう、と思ったとたん、ひらいていた心が閉じて、自分を価値ある何者かだと思ってしまいます。わたしたちは、神さまからの手紙、紙とインク自身に意味はありません。左手が思ったことを右手にも知らせずに、ただ一歩前へ。

2015年10月25日日曜日

「ローマの信徒への手紙」8章

「ローマの信徒への手紙」8章です。ここでは「霊の体」について語られます。「神の霊によって、導かれる者は皆、神の子なのです。」「わたしは確信しています。死も命も天使も支配するものも現在のものも未来のものも力あるものも…私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」この圧倒的確信と信頼感は、どこから来るのでしょうか。ある年配の信者さんの言葉「イエスを信じるということは、自分の十字架を背負ってイエスの後について死ぬということ。それだけだ。」自分の苦しみを引き受け、理不尽な痛みや切なさから逃げないこと、苦しいまま向こうからやってくる出来事を待つこと。「アッバ、父よ。」の叫びには、頭を垂れる恭順とうめきがないまぜになっています。「わたしたちも、神の子とされること、つまり体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいます。」「霊自らが言葉に表せないうめきをもって取りなしてくださるからです。」うめきながらも逃げ出さない。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」圧倒的な喜びと確信が、やってくることを信じながら。それが希望です。

2015年10月12日月曜日

ローマの信徒への手紙7章

ローマの信徒への手紙7章です。ここでは律法(掟)と罪の関係が語られます。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、…命をもたらすはずの掟が、死に導くものである…」本来正しく善いものである律法(戒律)が死をもたらすのは、自分の中の罪が「自分が望むことを実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」在るべき姿になろうという思いは、そうなれない自分の弱さをかえって際立たせます。だめな自分であるという悔恨は、それでも頑張ろうとする自分とますますだめになろうとする自分という深刻な分裂を生みます。まるで、同じ強さの力を持った子鬼たちが自分の中で争っているようで、それは全部自分なのだから、いつまでたっても決着がつかず、ただ心は疲れ倦んでしまいます。なんとかしようと力むのを止めた時、自縛の綱はするりと解けるでしょう。分裂した惨めな自分をそのまま差し出した時、自分の彼方にある風景が見えます。

♪こころの嘆きを 包まず述べて、などかは下ろさぬ負える重荷を♪

2015年8月4日火曜日

「ローマの信徒への手紙」 6章

「ローマの信徒への手紙」6章です。ここではキリストの死と復活が、実は私たちの死と復活でもあることが語られます。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは…もはや罪の奴隷にならないためである。」「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」そう簡単に考えられますか?洗礼を受ける時「白い衣を受けなさい。」と言われ白い布を肩に掛けられました。あれは、これまでの罪が赦されて新しく生まれ変わった、という意味だそうです。生まれ変わった感じがしましたか?
自分の面子にこだわり、自分の欲望に引きずられ、未来や今の生活の心配ばかりして、他人が思い通りにならないことに不満ばかり述べている自分、罪深い自分はいまだにここにいます。ともすれば、心はそれでいっぱいになってしまいます。でも、わたしたちは、それがすべてではないことも知っています。自分の思いの向こう側から、それをつらぬいてやってくる光があります。回心とは、醜い自己愛ばかり間近で見つめることではなく、肩の力をぬいて、やってくる自分を超えたはたらきに満たされることだと思います。うまくいったぞと思い、自分を過信したとたんに、それは消えてしまいます。握りしめずにはなちつづけること、むずかしいですね。

2015年7月26日日曜日

お知らせのまとめ アップ

今でのはがきによるお知らせをまとめた文章を作りました。
以下にアップします。

「マルコによる福音」 ~平成16年2月

https://kie.nu/2EJr


「使徒言行録」 平成16年3月~平成18年7月

https://kie.nu/2EJs


「コリントへの手紙Ⅰ」 平成18年9月~平成20年1月

https://kie.nu/2EJt

「ヨハネによる福音」 平成20年2月~平成22年9月

https://kie.nu/2EJu

「ヘブライへの手紙」 平成22年10月~平成24年4月


https://kie.nu/2EJv

「ルカによる福音」 平成24年5月~平成26年1月

https://kie.nu/2EJx



2015年7月19日日曜日

ローマの信徒への手紙 5章



「ローマの信徒への手紙」5章です。ここでは、律法によって義とされるのではなく、信仰によって義とされることが語られます。戒律と掟を守るから、正しいのではありません。律法は、それを守れないことによってかえって罪を作り、他者への裁きを生みます。

信仰によって義(正しい)とされるとは、キリストの流した血によって、自分の中に巣くう多くの罪が、赦された喜びそのものに成ることです。それは、私たちの努力で勝ち得たものではなく、ただ与えられ、与えられ続けるものです。まさに恵みです。そこから目を逸らさなければ「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み」ます。自分の外から、思わぬところから、よいものがきっと与えられるという希望は、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから」やってくるのです。怒りであっても喜びであっても、自分の思いだけで心を満たすのではなく、聖霊によって注がれるみちびきが入る場所を、空けておきませんか。ほんのわずかな隙間でも、そこからすべてが始まり、それがすべてとなるはずです。

「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれます。…恵みも義によって支配しつつ…永遠の命に導くのです。」

2015年6月3日水曜日

ローマの信徒への手紙 4章



ローマの信徒への手紙4章です。ここでは、律法を守るから義とされるのではなく、神を信じるから義とされることが、アブラハムの模範を元に、繰り返し語られます。また、割礼に触れ、ユダヤ人でなくとも、信仰があればすべての人が義とされると言い、キリストへの信仰が全世界に広がる基礎を作ります。「アブラハムは信じ」というフレーズが繰り返され、また、「実に、律法は怒りを招くものであり、…信仰によってこそ世界を受け継ぐ者になるのです。」とあります。

確かに、律法だけでは、決まり事を守ることに終始し、規範通りにしているか、人と自分を裁く視線が自分そのものになります。そこには怒りしかありません。律法を振り回す自分が自分の主人となり、逆に律法に振り回されています。では、信仰とは何でしょうか。信じることは、行いではなく、知識ではなく、ましてや心の在りようでもありません。それは「自分は確かに赦された。」といういただいた実感であり、そこから湧き出てくる喜びであり、喜びに裏打ちされた他者への祝福であると感じます。「人の罪である死の棘」が、抜け落ちたことの悦びです。いやなことや苦しいことが無くなるわけではありませんが、中心にある「赦されている喜び」と一つになっていたいです。

2015年4月26日日曜日

ローマの信徒への手紙 3章

「ローマの信徒への手紙」3章です。ここでは、正しい者は一人もいない、と言われます。どんな人も皆、罪の下にあり、どんなに神の掟である律法を実行しても罪の自覚しか生じない、とされます。正しい行いをしようとすればするほど、そこに届かない自分があらわになります。刻苦勉励して、自分は正しい行いをしていると思ったとたんに、それをしていない隣人が許せなくなります。ただイエスを信じることによってのみ義とされる、と言います。人の矜持やプライドはどこにあるのか。「それは、取り除かれました。」とあっさり言われてしまいます。律法の行いによるのではなく、信仰によって人は義とされる、と言います。信仰とは、「神を畏れる」こと。「畏れる」とは、「敬いかしこまる」こと。「かしこまる」とは、「正座して居ずまいをただす」こと。自分が造られた一段低い者であることを思い、じっと居ずまいをただして待てば、それはおのずからやってくる。曖昧さに耐え、自分の論理で対象を切り裂きたい欲望をこらえて待っていると、語るべき言葉、とるべき行いが示される。確信と活力と、そして愛と共に。

2015年3月29日日曜日

ローマの信徒への手紙 2章

「ローマの信徒への手紙」2章です。心に刺さる言葉「人を裁く者よ、…あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」人の悪徳を裁きながら、自分も平気で同じ事をする人のことです。でも、私はそれ以上の意味を感じます。周りの人の不誠実やわがままを非難し、なじる時、自分の顔にもそれと同じあさましさが浮かんでいます。憤怒に我を忘れ、怒りに引き摺り回される時、怒りを感じている当の卑しい感情と同化してしまいます。「タタリガミ」になってはいけません。引き返せなくなります。律法を超え、割礼を超え、聖霊によって心に記された言葉を紡ぎましょう。心を静め、身動きを止めればきっと湧き出てくるはずです。
3月の例会は、震災以来ずっと参加していたルーテル教会のシンディさんの送別会をしました。アメリカに帰国なさるそうです。いつも明るいシンディさんは、母国でも活躍なさると思います。去る人は、残される人にその人の薫りを手渡して置いていきます。その匂いをいつもかすかに感じながら、次へ、その次へ、自分も何かを手渡す覚悟で。

2015年3月1日日曜日

ローマの信徒への手紙 1章


今月から「ローマの信徒への手紙」に入りました。1章では、人類の罪が延々と述べられます。その大元は「神を認めようとしない」ことです。「自分では、知恵があると吹聴しながら、愚かになり」「造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕え」たので、「神は彼らを無価値な思いに渡され」あらゆる悪徳を行うようになりました。不義、悪、むさぼり、ねたみ、殺意など、並べたてられた悪徳は、どれも私たちの心に棲みついています。ただ表面に現れないだけです。私たちは、それが普通だと思っていますが、罪のない状態とは、心の中の様々な悪徳がきれいさっぱり無くなることでしょうか。それ以前に油断すると、つい「人をそしり、神を憎み、人を侮」る心の傾きは、解消されることがあるのでしょうか。

よく分かりません。自分がどう変化しても、なくならないような気もします。

でも、赦されることは、あると感じます。それがどういうことなのか、わが身に起きた、起きつつある、やがて起こるであろう変化が、まだよく分かりません。ただ、「福音は初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」の一言が、最後に心に残ります。


2015年1月25日日曜日

ルカによる福音書、最後の復活の場面を読みました。ここでもイエスは、とても親切です。エマオへ向かう二人の弟子に「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明され」るほどです。今回心に残ったのは「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか。」という天使の言葉です。イエスの復活を聞いた使徒たちには、「この話がたわ言のように」思われました。また、いきなり「彼らの真ん中に立」つイエスを亡霊だと思い恐れおののきます。現場にいたらなら、わたしだって絶対にそう思います。イエスは、用意させた一切れの焼き魚を「彼らの前で食べ」て見せます。まさしく「イエスは生きておられる」のです。「復活」は蘇生でもなければ、幽霊でもありません。「復活」は知的な理解を拒みます。自分自身の受難をイエスと共に体験し、苦しみの中から喜びに満ちて戻ってくる体験をしなければ、わからないのだと思います。

そんなことができるのだろうか。わたしはそんなに強くない。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。…まさしくわたしだ。」

2014年12月21日日曜日

12月の例会は、テゼの祈りをしました。その中で植松さんから、ご自分のお父さんの話があり、信仰の最後に残るのは「イエスはいつも共にいる。これだけです。」という言葉がありました。わたしは、いつもまっとうな時ばかりでなく、恥ずかしい姿の時や人に見せたくない醜い姿の時もあります。イエス様を迎える時、ついついまっとうな自分ばかりを見せたい、と思いますが、実は見せたくない自分の時もイエス様は同じようにそばにいてくださいます。それがわかった時の喜びの大きいこと。しかし、なぜかすぐに忘れてしまいます。クリスマスの度にそのことを思い出せるといいですね。

「イエスさまが生まれる イエスさまが生まれる
この暗闇を照らす光」
「キリストの平和が わたしたちの心の隅々にまで
ゆきわたりますように」
「主こそまことの救い とわの喜び わが力わが歌

主のみを信じて けしておそれない」

2014年11月17日月曜日

ルカの23章です。22章とは一転して、ここではイエスはほとんど語らなくなります。死を覚悟していたのでしょうか。一方福音記者は、ピラトの口を借りて「この男に何の罪も見いだせない。」「訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。」「死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。」とイエスの罪のなさを強調します。それは共に十字架にかけられた犯罪人の「しかし、この方は何も悪いことをしていない。」に、そして、百人隊長の「本当に、この人は正しい人だった。」につながります。イエスの最後の言葉は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」とはだいぶ違います。正しい人イエスは、何の罪もないのに「その男を殺せ。/十字架につけろ。」と叫ぶ祭司長たちと議員たちと民衆の狂気によって、殺されます。寡黙なイエスが語ったのは、回心する犯罪人にかけた「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」という言葉です。渦巻く狂気と憎悪の真っ只中で楽園にいるイエス。ただまっすぐに父なる神に顔を向け、目をそらさない姿を感じます。この出来事を見て、胸を打ちながら帰っていった見物人の中に、自分がいるような気がします。