9章の「罪への誘惑」の中に「人はすべて火という塩で清められる」「あなたがた自身のうちに塩を持ち、互いに平和に生きなさい」(フランシスコ会訳)という言葉があります。平和に仲よく生きるのはもちろん大切ですが、自分の中に他者に左右されない信仰という「塩」「火」を持って生きなさい、と言われた気がします。
また、誰が一番偉いか議論する弟子たちにむかって「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。この時イエズスは「幼な子を弟子たちのまん中に立たせ、その子を抱いて」しゃべっています。同じ箇所がマタイでは「幼な子を呼び寄せ、弟子たちのまん中に立たせて」、ルカでは「幼な子の手を取り、自分のそばに立たせて」しゃべっています。マルコの描く、弟子たちのまん中に入ってそこで子供を抱き上げ語る姿に熱い心を持った行動するイエズスを感じます。それに対して、マタイでは教師としてのイエズス、ルカでは優しいイエズスを感じます。
これを読んでふと、この子供はたくさんいた子供たちの中でも一番みすぼらしく垢だらけで、何かのハンディキャップを持っていたのではないかと感じました。自分の身近にいる、できれば直視したくない人。イエズスを受け入れるためには、きれいごとではなく生身であぶら汗を流さないといけないようです。
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