2007年1月21日日曜日

おわりに

「マルコによる福音」を通読して、わたしには熱く語り誰よりも真っ先に行動するイエズスの姿が浮かび上がってきました。時に苛烈に無理解な弟子たちを叱り飛ばし、信仰薄い人に怒りをあらわにします。その姿は時空を超えて直接わたしに迫ってきます。そのイエズスが死を覚悟すると怒ることも弟子を叱ることもなくなり、ひたすら柔和に寡黙になってゆきます。イエズスについて語るときその神性ばかりが強調されますが、わたしはここに人間として怒り悲しむイエズスの息づかいを感じます。その姿を率直に感じとれたことが「マルコによる福音」を読み通した一番の収穫だったと感じています。

テゼの祈り2

十二月は「テゼの祈り」を行いました。雨の中でも20人ほどの人が集まってくれました。感謝にたえません。祈りの中で指導してくださる植松さんが言われました。「仕事でいらいらしている自分も家族のことで悩んでいる自分もそのまま神様の前にさしだしてください。」

私はそれができないような気がします。いらいらしている自分がいます。もうだめなような気もしています。そんなだめな自分を人前に、まして神様の前にそのままさしだすなんてとてもできません。自分自身がだめな自分を見たくないのかもしれません。でも前に進むためにはそれがとても必要な気もします。もしかしたら私は、どこかで自分をたいした人間だと思っていたのかもしれません。昔ある神父様に「人間は唾棄すべき塵だ。」と聞いたことがあります。そこに神様の息吹があって人となるのだと。私は自分が塵であることを忘れていたのかもしれません

テゼの祈り1

十二月の例会は、「テゼの祈り」に替えます。

テゼの祈りとは、フランスのテゼ村ではじまった歌のお祈りです。短く単純な歌を何回も繰り返すことで心を合わせ、祈りを深めていきます。歌が苦手な人でも大丈夫、難しいメロディーではありません。キリスト教信者でなくても大丈夫。心静かなひとときを一緒に過ごしてみませんか。

その他2

先日の例会で心に残った言葉

『人生よいことばかりではありません。うまくゆかないこともあります。思いがけない障害に出会うこと、期待はずれに終わること、計画通りにゆかないこと、挫折を余儀なくされること、運の悪いこともあるでしょう。しかし、それら全てを含めて人生の全体を神より与えられたものとして受けとめ得ること、それが救いということです。うまくゆかないことのひとつひとつが解決されてゆくことが救いではないのです。良いも悪いも一切込みで、人生全体を神よりの賜物と受けとめ得る、その受身の人生態度の確立が救いなのです。』 (『神の風景』藤木正三:ヨルダン社)

今日ごミサに出て「主を仰ぎみて光を受けよう」という言葉が心に沁みました。

その他1

先月の例会では、福音書の話ではなく最近感じていることの分かち合いになりました。そこで感じた個人的な思いを書きます。

私達は日々生活に追われています。知り合いに会って話すことといえば、お金のこと、家族のこと、食事のこと、子どものことや仕事のこと…。全て具体的なことだし一つ一つ解決しなければいけないことばかりです。大人の生活はこれらの総計でしかないのかもしれない。しかし、それでも人は宗教を求めます。なぜなのでしょう。毎日の生活には必要の無いものなのに、なぜ人は本質的な部分で宗教を求めるのでしょうか。神の招きがあるから、と答えるのは簡単です。でもそれは私にとって説得力のある答えになりません。どうして人は神や仏を求めるのでしょうか。

マルコ福音書 第15章 第16章

イエスは、祭司長たちからピラトに引き渡されて民衆に拒絶され、ピラトからローマ兵に引き渡されて侮辱され、さらに十字架上でも侮辱されます。マルコ福音書の描写ではこの間、死を覚悟したイエスは、ほとんど何もしゃべりません。

 この時のイエスは人の罪の一切を背負って苦難の真っ只中にいます。まさに「死ぬ苦しみ」だったのでしょう。しかし、ずっと黙ったままだった。そして、死ぬ間際に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と言います。私はそこにイエスの激しい苦しみを感じます。最後の瞬間に大声で叫び、神殿の垂れ幕が裂けてしまいます。

読んでいる時、私はこの声が聞こえた気がしました。そして、いつまでも止むことなく響き続けているような気がします。

私たちは自分の苦しみに叫び声をあげることはよくあります。しかし、他人の苦しみを引き受けてなおかつじっと黙っていられるだろうか。

本当に苦しいさなかに、柔和な笑みを浮かべている人を見るといつも神々しさを感じます。

マルコ福音書 第14章-2

ゲッセマネで恐れもだえ始めたイエスのそばで三人の弟子たちは何度起こされても眠りこけてしまいます。最後にイエスは「…もうこれでいい。時が来た。…立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。」と言います。マルコの最初に出てくる、弟子を叱りつけるイエスとは違い死を覚悟した感じが伝わってきます。「私は死ぬばかりに悲しい。」「アッバ、父よ。この杯をわたしから取りのけてください。」と祈るイエスはそこにはもういません。

人は人生の重大な局面で、肚を決め静かな気持ちで「時が来た。行こう」と言う時が一度は来るような気がします。その時になってはじめてこのイエスの気持ちが僅かでも自分のものとしてわかるのかもしれません。それとも堪えきれずに逃げ出して、諦めきれずについていき、予言された通りイエスを否認して自分の厭らしさを直視しなくてはならなくなるのでしょうか。

「お前は…メシアなのか。」と問われイエスは「そうです。」と答えます。「…お前はあの連中の仲間だ。」と言われペトロは「…そんな人は知らない」と言います。

極限の状況に置かれた時わたしはどちらの返事をするでしょうか。

マルコ福音書 第14章-1

ペトロの離反を予告するところで、イエスが『あなたがたはみなわたしにつまずく(躓く)。…』と言うとペトロは『たとえ、みんながつまずいてもわたしはつまずきません。』『たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して言いません。』と言います。その時のペトロは本気でそう思っていたのです。しかしその後…。

私自身、頑なに握りしめるように思っていることは、いつも直後に覆される気がします。それも目を背けられないほど自分のいやらしさを直視させられる形で。自分の至らなさを激しく後悔させられます。たとえ「神様」という名前をつけても、何かを頑なに思い込むのは人の業で、結局は自分の都合でしかないのかもしれません。

マルコ福音書 第13章

今回読んだ十三章では世界の終末とイスラエルの苦難が予言されます。この部分だけなく聖書には世にも恐ろしげな世界の終末を語る部分が多くあります。

本当にいつか世の終わりが来てキリストが再臨し人々を羊と山羊に分けるのでしょうか。さまざまな解釈がありますが、そのひとつにこの終末は旧約の終末であり、同時にイエズスの死と復活を契機にした新約の始まりであると考えるものがあります。律法で取り決められた旧約の終わりを聖書的表現で言っているのだと思います。

終わりは確かに恐ろしげなことがたくさん起こり混乱するけれど、その中にすでに新しい喜びが隠れているのかもしれません。そして言うべきことはすべて「私」を通して聖霊が自ら語ってくれるでしょう。

混乱に惑うことなく絶望的な状況の先にある喜びを見通す目を持ちたいといつも思います。

2007年1月14日日曜日

マルコ福音書 第12章

十二章ではイエズスは自分の死が近いことを悟り、ファリサイ派やサドカイ派に次々と自分の教えについて身を賭けて打ち込んでいきます。

今回心に残ったのは、『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』という言葉です。「家を建てるもの」とは当時のユダヤの人々、捨てた石とは彼らが殺すイエズスのこと、そのイエズスが死と復活の後世界を支えるいしずえとなるという意味です。ぶどう園の非道な農夫たちは、主人によって殺されてしまいますが、他の人に与えられたぶどう園そのものは主人の息子の死によって支えられるのしょう。

私たちも、自分が蔑んでいるものや忌み嫌っているものによって、知らないところで支えられているのかもしれません。実は一番見たくないものにこそ救いが隠されているのではないか、と思います。

マルコ福音書 第11章

 イエズスがエルサレムに向かって上っていくところです。イエズスは群集に歓喜の声で迎えられ、道には服や「葉のついた枝」が敷かれます。この時群集はイエズスをローマの圧政から解放してくれる現実的な救世主として迎えます。この歓喜の声の中でイエズスただ一人が自分の死と復活を見据えています。この後のゲッセマネの祈りを考えるとイエズスの覚悟の深さを感じます。それを思ってその後の言葉を読むと、死に向かう人の遺言のように響きます。「…少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。…祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればそのとおりになる。」マルコ福音書を読んでいると、常にイエズスから「私を誰だと思うか。」と問われている感じがします。私は「主よ、あなたは神の子キリスト、あなたをおいて誰のところに行きましょう。」と答えられるでしょうか。

2007年1月7日日曜日

マルコ福音書 第10章

金持ちの男がイエズスに「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか。」とたずねる話が出てきます。子供のときから全ての掟を守ってきたと言うその男に向かってイエズスは「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。…」と言います。有名な話ですがその中で今まで気が付かなかった表現がありました。

「イエズスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」

イエズスは金持ちの男の真面目さや誠実さを好ましいと思ったのでしょう。諦めて立ち去る男を見てイエズスは落胆し悲しんでいるように感じます。そこには以前の怒れるイエズスはいません。死の覚悟を決めた者の優しさのようなものを感じます。この後イエズスはエルサレムに向かって先頭に立って進み、自分の死と復活を予告します。自分から困難な運命に立ち向かうと決めた時、人は透明な柔和そのものになるのかもしれません。

マルコ福音書 第9書

9章の「罪への誘惑」の中に「人はすべて火という塩で清められる」「あなたがた自身のうちに塩を持ち、互いに平和に生きなさい」(フランシスコ会訳)という言葉があります。平和に仲よく生きるのはもちろん大切ですが、自分の中に他者に左右されない信仰という「塩」「火」を持って生きなさい、と言われた気がします。

また、誰が一番偉いか議論する弟子たちにむかって「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。この時イエズスは「幼な子を弟子たちのまん中に立たせ、その子を抱いて」しゃべっています。同じ箇所がマタイでは「幼な子を呼び寄せ、弟子たちのまん中に立たせて」、ルカでは「幼な子の手を取り、自分のそばに立たせて」しゃべっています。マルコの描く、弟子たちのまん中に入ってそこで子供を抱き上げ語る姿に熱い心を持った行動するイエズスを感じます。それに対して、マタイでは教師としてのイエズス、ルカでは優しいイエズスを感じます。

これを読んでふと、この子供はたくさんいた子供たちの中でも一番みすぼらしく垢だらけで、何かのハンディキャップを持っていたのではないかと感じました。自分の身近にいる、できれば直視したくない人。イエズスを受け入れるためには、きれいごとではなく生身であぶら汗を流さないといけないようです。

マルコ福音書 第8章

マルコの八章にイエズスが弟子達を叱る言葉が出てきます。四千人にパンを裂いたのに、パンを忘れて心配する弟子たちにこう言います。

「なぜパンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いた時、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」…「まだ悟らないのか。」その後弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問いかけ、ペトロは「あなたは、メシアです。」と答えます。

私は洗礼を受けて十年以上になりますが、「イエズスは救い主だ」と言われてもどこか他人事だという感じが抜けません。「迷うのはもういい加減にして、両目を開けて見て、心に刻みなさい。」とイエズスに怒られた気がします。

愛のある叱責を感じます。

2007年1月3日水曜日

マルコ福音書 第6章

マルコの六章に「湖の上を歩く」話が出てきます。有名な話ですが、新しい発見がありました。「夕方になると舟は湖の真中に出ていたが、…ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとした。」もしかしたら夕方から夜明けまでイエスは弟子達を見ていたのかもしれません。そして、何かを伝えようとして弟子達のそばを通り過ぎようとしたのでしょう。そこで恐れる弟子達に「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」弟子達はあらしが静まったのを見てとても驚きます。また復活後に現れ、亡霊だと思う弟子達に「…どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい。まさしくわたしだ。(I myself)…」(ルカ24)と言います。

私自身に迫ってくる「わたしだ」という言葉、顔をそむけたい誘惑はあるけれど、でも、私を捨ててイエスと向かい合い光を受けよう。

2007年1月1日月曜日

マルコ福音書 第4章

聖書ではイエスがさまざまな人々と食事をする場面が出てきます。当時一緒に食事をすることは最大級の親しさの証だと聞きました。現代では一緒に寝泊りすることに近いのでしょうか。もし我々が同時代に生きていて一緒に食事をしたら、イエスに向かっていったいどんなことを言うのでしょうか。ザアカイは自分から財産の寄付を申し出ました。直接イエスに触れる時、きっとその人の中から何かが噴き出してくるのでしょう。

私の中からは何が噴き出すのでしょうか。その時、自分の面子や我欲にしがみつくと噴き出すものは瞬時に憎しみに変わる気がします。圧倒的な光から自分の目が離れないことを願います。

マルコ福音書 第3章

先月の例会では『マルコ福音書』の三章を読みました。印象的だったのはファリサイ派が罠を仕掛けている会堂でイエズスが堂々と奇蹟を行ったことと「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」という言葉です。イエズスは誰よりも先に正しいことを行い、その後私たちを招きます。この時空を超えた招きにどう答えればいいのでしょうか。私はうまく答えられません。

マルコ福音書 第2章


四月は「中風の人を癒す」話が中心になりました。その中で「子よ、あなたの罪は赦される」というイエズスの言葉が心に残りました。私たちが生まれながらに持っている罪が赦されるとはすごいことだとあらためて感じます。ところで「赦す」とは何でしょう。辞書によると「捨ておいて責めない」とあります。また、赦の[][]に通じ「放つ」の意味があるそうです。

自分の罪が赦されたように私たちは他人を罪に定める気持ちを「放つ」ことができるのかどうか。同様に後生大事に握りしめたものを「手放す」ことができるのか。キリスト教に限らず、すべての信仰の本質がここにある気がします。この「放つ」を求めて多くの宗教者が祈り、また行じています。宗教と道徳の違いは、この一点にあるのだと思います。