2014年7月26日土曜日

7月の例会は、福島いずみルーテル教会に場所を移して行い、ルカ福音書の21章を読みました。
ここでイエスは、わずかな金額でも「持っている生活費を全部」献金したやもめ(寡婦)を「だれよりもたくさん入れた。」と評します。金持ちたちは、はるかに多くの金額を献金しますが、それは余ったものであり、痛みを伴いません。自分にとって大事なもの、痛みを伴うものを捧げることは、自分自身を差し出すことに通じます。それは、言い換えれば、信仰を外側から見て解釈し理解しようとするのではなく、自分の全てを投げ入れることと同じです。片足でも、こちら側に残すと命取りになります。その後、「神殿の崩壊」「エルサレムの滅亡」という形で現体制の崩壊が予言され、恐ろしげな終末の徴のあと、イエスの再来が予言されます。それは、間近に迫った受難の予告であり、その後のユダヤ民族の苦難の預言でもあり、福音を信じるものに来る大転換の例えにも見えます。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。」「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と言われます。

2014年7月2日水曜日

ルカの20章です。前章でイエスは、熱狂をもってエルサレムに迎えられ、神殿から商人たちを追い出します。そこで教えているイエスに、祭司長や律法学者たちが次々に戦いを挑みに来ます。民衆の支持を背負うイエスと支配者である律法学者たちとの命をかけた丁々発止のやり取りです。ここでのイエスは、既成の価値観を片端からひっくり返していく戦うイエスです。有名な「皇帝への税金」も「復活についての問答」もこのギリギリの状況の中で語られています。律法学者たちの意地の悪い罠である問いかけに、自分のすべての重みをかけて全身全霊で応えていくイエス。相手を痛烈に批判しつつも決して拒否することなく、必死で向き合い自分を伝えようとしています。わたしは、そこに愛を感じます。律法学者の中には「先生、立派なお答えです。」と、言うものも出てきます。それは、戦いながらも死を覚悟しているから、できる業なのでしょう。「変えられること」にひらかれてある者はイエスに従い、拒否するものはイエスを殺そうとします。わたしは、そしてあなたは、どちらでしょう。