2016年3月30日水曜日

ローマの信徒への手紙11章

ローマの信徒への手紙の11章です。ここでもパウロは、異邦人の救いとイスラエル人の関係を述べています。これを読んで、ふと30年以上前のことを思い出しました。当時、私は必要以上にとがった大学1年生で、周りの人を攻撃したり、議論をふっかけたりしてばかりいました。それを見かねたのでしょうか、4年生の女性の先輩が飲みに誘ってくれました。その席で「先輩が信じているものは何ですか。」とたずねると「周りも人も自分も変わるということを信じてる。」という答えが返ってきました。即答でした。笑顔がありました。笑顔の向こうに希望がありました。今の苦しみも喜びも、自分を含めた全てが変わっていきます。明日は今日の続きではなく、全く新しい何かが始まる時かもしれません。新しくなった自分にとって、脱ぎ捨てた過去のこだわりやうらみは意味をなさないものになります。「今」が変わると「過去」が変わります。人が新しくなる時、そこには神の息吹があります。頑張って自分を変えようとするのは、頑なな心のなせる技です。「私を変えてください。」とお祈りしましょう。「接ぎ木されたぶどうの枝」も「根から豊かな養分を受けるようになる」のですから。

2016年3月7日月曜日

ローマの信徒への手紙10

「ローマの信徒への手紙」10章です。ここでパウロは、神の救いがイスラエルにだけでなく、神を信じるすべての人に及ぶと言います。ある意味、ユダヤ教との決別の表明です。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。主の名を呼び求めるものはだれでも救われるのです。」その救いは、律法を遵守する義ではなく、信仰による義からやってきます。その信仰は、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです。」しかし、信仰は「宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。」「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」遣わされた者、それは私。信じることと宣べ伝えることは、実は同じこと。信じることのほとばしりが、周りの人を幸せにして、何か伝わっていけばよいと思います。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか。」