2015年3月29日日曜日

ローマの信徒への手紙 2章

「ローマの信徒への手紙」2章です。心に刺さる言葉「人を裁く者よ、…あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」人の悪徳を裁きながら、自分も平気で同じ事をする人のことです。でも、私はそれ以上の意味を感じます。周りの人の不誠実やわがままを非難し、なじる時、自分の顔にもそれと同じあさましさが浮かんでいます。憤怒に我を忘れ、怒りに引き摺り回される時、怒りを感じている当の卑しい感情と同化してしまいます。「タタリガミ」になってはいけません。引き返せなくなります。律法を超え、割礼を超え、聖霊によって心に記された言葉を紡ぎましょう。心を静め、身動きを止めればきっと湧き出てくるはずです。
3月の例会は、震災以来ずっと参加していたルーテル教会のシンディさんの送別会をしました。アメリカに帰国なさるそうです。いつも明るいシンディさんは、母国でも活躍なさると思います。去る人は、残される人にその人の薫りを手渡して置いていきます。その匂いをいつもかすかに感じながら、次へ、その次へ、自分も何かを手渡す覚悟で。

2015年3月1日日曜日

ローマの信徒への手紙 1章


今月から「ローマの信徒への手紙」に入りました。1章では、人類の罪が延々と述べられます。その大元は「神を認めようとしない」ことです。「自分では、知恵があると吹聴しながら、愚かになり」「造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕え」たので、「神は彼らを無価値な思いに渡され」あらゆる悪徳を行うようになりました。不義、悪、むさぼり、ねたみ、殺意など、並べたてられた悪徳は、どれも私たちの心に棲みついています。ただ表面に現れないだけです。私たちは、それが普通だと思っていますが、罪のない状態とは、心の中の様々な悪徳がきれいさっぱり無くなることでしょうか。それ以前に油断すると、つい「人をそしり、神を憎み、人を侮」る心の傾きは、解消されることがあるのでしょうか。

よく分かりません。自分がどう変化しても、なくならないような気もします。

でも、赦されることは、あると感じます。それがどういうことなのか、わが身に起きた、起きつつある、やがて起こるであろう変化が、まだよく分かりません。ただ、「福音は初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」の一言が、最後に心に残ります。