2015年10月25日日曜日

「ローマの信徒への手紙」8章

「ローマの信徒への手紙」8章です。ここでは「霊の体」について語られます。「神の霊によって、導かれる者は皆、神の子なのです。」「わたしは確信しています。死も命も天使も支配するものも現在のものも未来のものも力あるものも…私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」この圧倒的確信と信頼感は、どこから来るのでしょうか。ある年配の信者さんの言葉「イエスを信じるということは、自分の十字架を背負ってイエスの後について死ぬということ。それだけだ。」自分の苦しみを引き受け、理不尽な痛みや切なさから逃げないこと、苦しいまま向こうからやってくる出来事を待つこと。「アッバ、父よ。」の叫びには、頭を垂れる恭順とうめきがないまぜになっています。「わたしたちも、神の子とされること、つまり体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいます。」「霊自らが言葉に表せないうめきをもって取りなしてくださるからです。」うめきながらも逃げ出さない。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」圧倒的な喜びと確信が、やってくることを信じながら。それが希望です。

2015年10月12日月曜日

ローマの信徒への手紙7章

ローマの信徒への手紙7章です。ここでは律法(掟)と罪の関係が語られます。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、…命をもたらすはずの掟が、死に導くものである…」本来正しく善いものである律法(戒律)が死をもたらすのは、自分の中の罪が「自分が望むことを実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」在るべき姿になろうという思いは、そうなれない自分の弱さをかえって際立たせます。だめな自分であるという悔恨は、それでも頑張ろうとする自分とますますだめになろうとする自分という深刻な分裂を生みます。まるで、同じ強さの力を持った子鬼たちが自分の中で争っているようで、それは全部自分なのだから、いつまでたっても決着がつかず、ただ心は疲れ倦んでしまいます。なんとかしようと力むのを止めた時、自縛の綱はするりと解けるでしょう。分裂した惨めな自分をそのまま差し出した時、自分の彼方にある風景が見えます。

♪こころの嘆きを 包まず述べて、などかは下ろさぬ負える重荷を♪