2014年5月22日木曜日

 ルカの19章です。ここでイエスは、やがて自分を十字架につけるエルサレムのために泣きます。この「神の訪れてくださる時をわきまえなかった」エルサレムに下る神の罰は、後代のローマ軍による実際の壊滅を下敷きに語られます。罰は、「王の位を受けるために遠い国に旅立ち、帰ってきた主人」の僕にも与えられます。厳格な主人を恐れるあまり、与えられた現金を減らさないよう布の包んでとっておいた僕です。儲けるために、無くなることを恐れず投資した僕たちは、大いに賞賛され、さらに与えられます。大事にしまっておいてはダメなのです。なにしろ「わたしが帰ってくるまで、これで商売しなさい。」と命じられているのです。減らさないよう人目にもつかないよう、後生大事に持っていては、意味がないのです。この「現金」を「恵み」と「喜び」に読み替えたらどうでしょう。自分の中で完結している恵みや喜びはやがて消え去ってしまうでしょう。溢れる喜びは、ザアカイのように、身を貫いて「財産の半分を貧しい人々に施します。…」という叫びになって表出します。与えれば与えるほど、ますます湧いて溢れます。「持っている人はさらに与えられる」のですから。

2014年5月3日土曜日

ルカ福音書18章

ルカ福音書の18章です。ここで大事なのは「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」という徴税人の言葉、「ダビデの子イエスよ。わたしを憐れんでください。」と叫び続ける盲人の言葉。「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち(を)…ほうっておかれることがあろうか。」という神様への信頼。「あなたの信仰があなたを救った。」と言われる、心の底から請い求め、願い続ける気持ち。「憐れんでください。」というのは、簡単そうで難しい。恥ずかしいところも見せたくないところも素直に認め、それを全部差し出してお願いすることだから。わたしもあなたも心のどこかにプライドがあり、ファリサイ派のように「私は、よい人間です。私はこんなに立派なことをしています。」と、かすかでも思っている。その気持ちは、「持っている物をすべて売り払い貧しい人々に分け」られない金持ちの財産と同じ。わたしの足枷、わたしを地上に繋ぎ止めるもの。捨てられないものや気持ちが邪魔をして、イエスの死と復活の言葉も理解できない。考えず戸惑わず、素直に自分を差し出すのは、乳飲み子たちのような者。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」