2017年3月20日月曜日

マタイによる福音書 6章

マタイ福音書の6章です。ここでは施しをする時、祈る時、断食する時に、偽善者のように他の人に見せるためではなく密かにしなさい、と言われます。ところで、私たちが自分のよいところを見せたい一番の他人は、実は自分の中にいる気がします。「自分はよく祈っている、周りの人のために努力している、神さまのことをいつも感じている。」と思う時、それは自分の中で自分を採点している自分に見て欲しいのです。自分はよくやっている、自分は神さまに忠実だ、と思い込みたいのです。逆に、自分で採点する点数が低い人がいます。自分はダメな人間だ、生きる価値もない、とひたすら必要以上に自分を貶めます。一見逆に見えますが、自分の視野が自分でいっぱいになっていることに変わりはありません。自分など実はどうでもいいのです。どんなにしゃっちょこばっても、所詮は塵の固まりです。自分を通して顕れる神の息吹は、自分の価値とは無関係です。自分を見ている左手が、ことを行う右手を合わさった時、分裂している自分が大元で一つであり、それは神とひとつながりであると気づく時、神の国が現れるのかもしれません。「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」

2017年3月5日日曜日

マタイによる福音書 5章

マタイによる福音書5章です。ここでイエスは「わたしが来たのは律法を廃止するためではなく完成するためである。」と言います。律法とは「決まり」です。決まりは、それを守るか破るかが重要になり、またどういう状態になれば破ったことになるかという解釈が中心になります。『人を殺した者は裁きを受ける』としたら、怪我をさせた場合は?正当防衛の場合は?など様々な場合を想定し、細目を決める必要が出てきます。まさに法律論であり、それが律法学者たちの仕事でもあったのでしょう。しかし、「正しさ」の解釈の中に、神への信仰はありません。イエスは「兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、・・・まず行って兄弟と仲直りをし、それから供え物を捧げなさい。」と言い「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。」と迫ります。これは「決まり」ではなく、私たちの在り方そのものに切り込んできます。一見すると厳しい要求を突きつけられる気がします。でも私はイエスに「今変われ。私の目の前で変われ。自分を捨てろ。」と命がけで迫られている気がします。自分にできるかどうか躊躇するのではなく、ずっと正しくいられるか思い悩むのでもなく、「はい」と答えること。自分が一歩進み、見える風景が変わり、大地が動きます。「跳べ!」と迫るイエスに、私は深い愛を感じます。