2013年6月23日日曜日

投稿再会

久しぶりの投稿です。これから毎月アップしていく予定です。

ルカの11章です。ここでイエスは、食事前に身を清めないことを不審がるファリサイ派に対して激しい非難を浴びせます。「ファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分たちの内側は強欲と悪意に満ちている。」律法を守ることばかりにこだわり自分の内側に巣くうエゴを見ようともしないのです。それは「しるしを求めること」への非難につながります。「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。」「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」「しるし」とは、安心のための証明であり、「~である」という保証です。そこに座したまま信じるための材料です。しかし、今いる場所で保証を欲していているだけでは、信じることはできません。「求めて与えられ、探して見つかり、門をたたいて開かれる」ことをして、聖霊のはたらきと一つになること。神やイエスを自分の側に引き寄せて「~である」と思い込むのではなく、相手や状況の中に自分のすべてを投げ入れて、促しのままにのびやかに過不足なく動き、動かされること。それは、信仰が「その輝きであなたを照らすときのように、全身が輝いている」ことと同じです。