2007年7月16日月曜日

(平成171月)

1月の例会では、使徒言行録の9章「サウロの回心」を読みました。キリスト教から見ると主の弟子たちを殺そうとしていた回心前のサウロは極悪非道に見えますが、本人にしてみればユダヤ教の異端を排除する正義心からの行為だったと思います。そこに私は残虐さよりも、激しさと妥協を許さない真面白さを感じます。そのサウロが主の声を聞き、目からうろこのようなものが落ち回心します。その時、サウロの今までの悪事を非難するアナニアに、主は「あの者は、…わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」といいます。事実、熱烈な弟子となったサウロは妥協的なベトロを非難し、弟子たちからも孤立していく面があります。しかし、キリストへの信仰が唯一であり律法より優先すること、割礼を受けているかいないか(ユダヤ人であるかないか)は関係ないことを宣言したのもパウロ(サウロ)です。キリスト教がユダヤ教から訣別し、より普遍的な宗教として広まる基礎と神学を確立したと言えるでしょう。その際のたくさんの困難を越えてキリストの信仰を広める力があったからこそ、主はサウロを選んだのだと思います。その力の源泉は「主への畏れ(うやまい)」と「聖霊で満たされていた」ことではないでしょうか。頑なな思いからではなく、泉のように湧いてくる柔らかな活力があったからこそ成し遂げられた偉業だと感じます。

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