2007年7月16日月曜日

(六月)

使徒言行録の十五章を読みました。ここでは異邦人の信者にユダヤ人と同じように割礼を受けさせるかが問題になっています。つまり、キリストを信じることをユダヤ人と同化することと捉えるかいなかです。ペトロとパウロは激しく割礼に反対します。神は『彼ら(異邦人)の心を(律法や割礼でなく)信仰によって清め、わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいませんでした。』ここで初めてユダヤ人であることとキリスト者であることが明確に区別されます。言い換えれば人種や民族を超えてキリストの福音を信じるかどうかという一点のみが重要になります。キリスト教が民族宗教を越える分岐点です。

ところでパウロはこうも言います。『先祖もわたしたちも負いきれなかった軛(くびき)を、あの弟子たちの首に懸けて神を試みようとするのですか。』割礼も律法も神との契約です。それを厳格に守ることが神の国に入る絶対条件でした。「~したから救われる。」「~を守っているから神の国に入る資格がある。」この感覚は形を変えて現代でも根強くあると感じます。まじめに熱心に信者の勤めを果たしても、それが喜びでなく義務である限り神の国は遠のくばかりです。教会の中にいるか外にいるか、聖書に詳しいかそうでないかは、もちろん重要ですがそればかりを見ていると本質を見失ってしまいそうです。

『あなたの罪を許された。…』この声が私に聞こえてくるでしょうか。

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