2007年7月16日月曜日

(七月)

使徒言行録の十六章を読みました。ここではテモテという若者がパウロの同行し、また初めて「わたしたち」という言い方が出てきます。これは、言行録の記者がパウロに同行していたことを表しています。ルカ福音書と同じ人物ではないかと言われています。

さて、パウロがマケドニアで捕らえられ投獄された時「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」そして、大地震が起こり牢の戸がみな開き、鎖が外れても誰一人逃げ出そうとはしませんでした。牢獄ですから直接顔を見ることはできません。囚人たちはどこかから聞こえてくる賛美の祈り(歌)を聞いてうっとりしていたのかもしれません。それともなにかを感じて回心していたのかも…。

現代の私は、パウロの言葉を聖書を通して聞くことはできますが、パウロ自身が持つ霊性に直接触れることはできません。パウロの言葉の背後には、祈りの歌だけで囚人に影響を与える霊性があったのだと思います。多分その力は、喜びに満ち、赦しと光を感じさせるものだったのでしょう。

私は、言葉だけでなく相手の霊性まで聞いているでしょうか。私は言葉だけでなく姿で人に喜びをつたえているだろうか。

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