2007年7月16日月曜日

(四月)

使徒言行録の十三章を読みました。パウロの最初の伝道旅行です。アンティオキアの会堂でパウロは求めに応じてイエスが救い主であることをのべ伝えます。また、ユダヤ人に限らず「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが地の果てにまでも救いをもたらすために。」と異邦人にもイエスの救いがもたらされることを宣言します。それを聞いてユダヤ人はパウロとバルナバを迫害します。単純に考えるとパウロたちが善でユダヤ人が悪だと思いがちですが果たしてそうでしょうか。ユダヤ人は厳格に律法を守ることによって救いが得られると信じています。彼らにとってパウロは正しい教えを捻じ曲げる異端、魔術師と映ったのでしょう。それを迫害することは彼らにとっては神の教えを守る正義の行為であったはずです。自分が信じることを守るために他を迫害する行為はいつの時代もありました。真面目であればあるほどその度合いはひどくなります。かつてのパウロ自身がそうであったように。「まじめの悪徳」です。戦争も大量虐殺も真面目な人が起します。怠け者ではありません。キリスト教の歴史の中にも、そして現在の教会の中にも私たち自身の中にも「まじめの悪徳」は潜んでいます。「まじめの悪徳」に操られる時、私たちは自分のエゴを神と呼んでいるような気がします。

神さま「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。」でも私たちは本当に心の底から人を赦すことができるのでしょうか。それは人間の業ではないような気がします。

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