2007年7月16日月曜日

(三月)

先月は使徒言行録の二十一章を読みました。ここでパウロは多くの信者が止めるのを振りきってエルサレムへ上ります。「…主イエスのためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」と言います。そして、エルサレムでは、神殿の境内で捕らえられリンチにあっているところをローマ人の千人隊長に逮捕されます。パウロはなぜこんなにもユダヤ人に忌み嫌われたのでしょうか。それはパウロを捕らえようとユダヤ人が叫んだ言葉「…この男は、民と律法とこの場所(神殿)を無視することを、至るところでだれにでも教えている。」から端的に分かります。また、ユダヤ人で信者になった熱心な律法の遵奉者の間でも「『子どもに割礼を施すな。慣習に従うな。』と言って、モーセから離れるように教えている」と思われています。パウロはモーセの律法を守るな、と教えたわけではなく、異教からの回心者には律法もまたそれを守る必要がないことを教えただけです。なぜなら、人は律法ではなくイエスへの信仰によってのみ義とされるからです。ここで描かれているのは実はユダヤ教とキリスト教の対立ではなく、律法(決まり)を守ることで正しい道を歩むことができるのか、それとも律法より神の愛を生きることが優先するかの対立です。この場面を読む時、ユダヤ人=悪者と思いがちですが、私の中にも実はこの律法遵守主義が隠れている気がします。それがモーセの律法でなく教会の決まりでも実は全く同じことだと感じます。義務として「正しい」とされることの影には「正しい」基準で他者を裁く視線が必ず内包されています。それは自分自身の力では払拭できない自分の闇です。闇から抜け出す方法はただ一つ。さて…。

0 件のコメント: