2007年7月16日月曜日

(九月)

九月の例会では、使徒言行録の十七章を読みました。パウロはテサロニケでべレアで、そしてアテネで福音を述べ伝えます。テサロニケでは、パウロを嫉んだユダヤ人たちが暴動を起こし、ふたりを探します。ユダヤ人にとって、十字架にかけられて死んだ罪人が神の子であるはずはなかったし、神に対する冒瀆だと感じたのでしょう。パウロの迫害を考える時、ユダヤ人はいつも悪役ですが冷静に考えれば、罪人として殺された人を神の子だと言い張ればユダヤ人の宗教感覚では、迫害して当然と言えるかもしれません。律法(神の掟)を守ることが神の国に入れる唯一の道だと信じていたのです。神の子がいるとすれば当然栄光に包まれて登場するはずです。磔にされた罪人であるはずはありません。これは、現在の私たちの感覚とも重なります。私たちは、正しい行いをする人がその代償として真っ先に救われるはずだ、とどこかで思っていませんか。その目が自分の内に向けば、自分のだめさ加減を嘆き、外に向けば、人のあらばかり見え他人を断罪します。信者はそうでない人の手本となるべきだ、というのも同じです。私はキリストが十字架にかけられて死んだ、という事実はこの感覚を真っ向から打ち砕くものだと感じます。『私は、正しい人のためでなく、罪人のために来た』という言葉。私が日頃蔑んでいる人や物。私の痛みを押しつけている相手。私の痛みや攻撃を無言で引き受けてくれる弱いもの。その中にこそ救いがある気がします。そして、自分が他人の嫉みや悪意を進んで引き受ける時、何かが大きく変わる予感がします。

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