2016年12月23日金曜日

マタイによる福音書 3章

マタイによる福音書の3章です。今回印象深かったのは、洗礼を受けに来たファリサイ派などに洗礼者ヨハネが投げつけるこの言葉です。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」彼は何を怒っているのでしょうか。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と荒れ野で呼ばわる声を聞いて、ファリサイ派たちは、我らこそアブラハムを真に継ぐ者、天の国に最初に入る者という顔をしてやって来たのでしょう。その傲岸さへの怒りです。私はこのファリサイ派の心に「分裂」を見ます。神に向かっては戒律を守る自分を誇り、民に向かっては戒律の細則を決め、守れない者を罪人と断罪します。仲間同士の顔もあるでしょう。その中心にあるのは「大きな自分」です。それは字のごとく「臭く」いやらしさを感じます。しかし、誠実であっても、駄目な自分や弱い自分や千々の自分に分裂している限り、やっぱり自分は「臭い」です。自分の弱さに視界が覆われていることは、実は、うぬぼれで周りを見ようとしないこととあまり変わりません。至らない自分や瞋りにとらわれている自分を、すべて集めて光の方に差し出してみませんか。砕かれた心を隠さずそのまま差し出すと、きっとほっとできるでしょう。
「主の平和」は、悔い改めにふさわしい実であり、なによりのめぐみです。

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